愚かな金持ちのたとえ話

4月 21, 2025

The Story of the Rich Fool
February 10, 2025

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 12:31
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愚かな金持ちのたとえ話は、富や個人財産について触れた3つのたとえ話の1つです。イエスが富やその使い道と誤った使い方について教えておられるのは、この3つのたとえ話(「愚かな金持ち」「金持ちとラザロ」「不正な管理人」)だけに限りませんが、ここでイエスは、そういったことを教えるために、たとえを使っておられるわけです。

ルカ12章は、まず、声が聞こえる距離に何千人という群衆がいる中で、イエスが弟子たちに教えておられる所から始まります。その時、近くにいる人がイエスに言いました。「『先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください。』 [しかし、イエスは]彼に言われた、『人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか。』」(ルカ12:13–14)

誰かが「先生」(ルカの福音書ではラビと同じ意味で使用)に、このような法的な争いの仲裁を頼むのは、珍しいことではありませんでした。ラビはモーセの律法の専門家であり、そのような類いの事柄の法的裁定をすることに多くの時間を費やしていました。この状況においてはおそらく、父親が、文書であれ口頭であれ、遺言を残さずに亡くなって、二人の兄弟の間に遺産を巡る争いが起きたのでしょう。イエスに話しかけたその男性は、おそらく弟の方でしょう。父親の遺産は兄が同意しない限り、それを分けることができないからです。

それに対するイエスの答えは、幾分そっけなく、やや不愉快に感じているようにも取れます。「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか。」 弟がイエスに求めているのは、調停、つまり、兄と自分の間に立って仲裁をしてくれることではありません。イエスに、自分の側に付いて、兄に遺産を分けるよう話してくれと頼んでいます。ある意味で、彼はイエスがラビや教師として、兄に圧力をかけることのできる影響力ある立場にいると見なし、それを利用しようとしているわけです。

イエスは弟の要望に対して、このようにフォローなさいました。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。」(ルカ12:15)

そのように告げることで、イエスはそこにいた全員に、あらゆる貪欲、つまりもっと多くをほしがるという、飽くことを知らない激しい欲望に警戒するよう、忠告しておられます。主は、その状況で誰が正しくて誰が間違っているかを指摘するのではなく、貪欲に対する忠告をされたのです。この争いに癒やしと関係修復をもたらす解決策は、遺産を分けることではなく、心の中から、強欲や利己的態度を取り除くことにあります。

イエスは続いて、愚かな金持ちのたとえ話をなさいます。このたとえ話をしっかりと理解するには、神が万物を創造され、詰まるところ万物は神のものであることや、私たちは神から与えられたものの管理者であることを教えている聖句を念頭に置くと助けになります。たとえば、詩篇24篇1節にはこうあります。「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」

ケネス・ベイリーは次のように書いています。

聖書による考え方では、私たちは自分の財産すべての管理者であり、それをどう使うかの責任を、神に対して負っています。… 世界中のクリスチャンは、自分たちの私的財産と地球全体の管理者となるように求められています。愚かな金持ちのたとえ話は、この主題に関して主がされた主要な教えの一つなのです。それは、自分はすべての所有物に対して神に説明責任を持っていることに気づかなかった男性についての物語です。[1]

土地を分けてほしいという弟の要請に対し、イエスは貪欲と財産について一言述べた後に、このたとえ話をなさいました。

ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、「どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが」と思いめぐらして言った、「こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」

すると神が彼に言われた、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。(ルカ12:16–21)

この男についてわかるのは、彼はすでに金持ちだったということと、畑が豊作だったということです。おそらくその年は、日光と雨の量がちょうど良かったのでしょう。その年だけ、他の年よりも懸命に働いたとはどこにも書かれていません。ただ、その年は莫大な余剰分があったので、今の倉にはそれをしまい込む場所がありませんでした。

明らかにその男は豊作を神からの祝福であるとか、究極的には神が収穫と土地、さらには彼が持つすべての所有者であるとは考えていません。その豊かな収穫をどうすべきかについて、男が自問自答していますが、それはすべて「私の作物、私の倉、私の穀物、私の物、私の魂」についてです。神や神の祝福については一言も言っていません。

その後に書かれているように、彼はこの豊かな収穫を他の人たちのためや、神の栄光のために使おうという気など毛頭ありません。むしろ、心の中でこう言います。「こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。」 すでに十分のものを持っているこの自己中心的な金持ちは、新しくてもっと大きな倉に穀物を蓄えようと計画します。そうすれば、今後何年も経済的に安泰だと思い込んでいるのです。そしてこんな独り言を言います。「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」

伝道の書は、食べたり飲んだり、楽しんだりすることについて語っていますが、その一方、神が私たちに「命の日」を与えられたのであり、地上での私たちの人生や時間は神のものであるということを思い起こさせています。(伝道の書8:15) イエスはたとえ話の次の部分で、この点を非常にはっきりと言っておられます。「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。』」 イエスはこの男を愚かな者と呼ばれました。それを聞いていた人たちは、詩篇でこのように書かれている節を思い出したかもしれません。「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」(詩篇14:1) 愚かな者という言葉は、旧約聖書の別の部分でも、自分は神に依存しているのだということを認めない人を指して使われています。

この金持ちが愚かな者と呼ばれているのは、神を除外した考え方をしているからです。自分の持ち物が将来を保証してくれると考えているのです。経済的に安定しているなら、将来は安泰だと、心の中で思っています。食べ、飲み、楽しむことができ、心配することなど何もないというわけです。

金持ちの男は、神が収穫量を増し、豊作としてくださったこと、また命を与えてくださったことを考慮に入れていません。この男の人生が終わる時、彼の計画がどれほど無意味で愚かなものであったかが明らかになります。彼の持ち物は真の安泰を与えてはくれません。

ヤコブは彼の書簡で次のように書いて、同様の指摘をしています。

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。(ヤコブ4:13–15)

金持ちの男は、神という要素を考えに入れていませんでした。神のことや、自分の人生における神の役割や神の支配のことなどちっとも考えずに、自分の将来を計画していたのです。彼の考え方によれば、自分の命も含め、すべては彼のものでした。しかしイエスは、ある意味で、それはすべて借り物であり、実際にはすべてが神のものであると明確に告げておられます。

イエスは続けて次のように言われました。「そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」 伝道の書と詩篇にも、似たようなことが書かれています。

わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。(伝道の書2:18–19)

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。(詩篇49:16–17 新改訳第三版)

昔の言葉にもあるように、あなたはそれを持って行くことはできません。死ぬ時には物質的な富をすべて置いて行くことになり、持ち主にとって、それは何の価値もなくなります。その点を簡潔に述べた後、イエスは次のように述べて、たとえ話を締めくくっておられます。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」(ルカ12:21)

愚かな金持ちは、豊作という祝福を、自分の楽しみと安泰を与えてくれるための手段として見ていました。自分のこと、自分の将来や自分の楽しみのことしか考えていなかったのです。もしかしたら神は彼の欲望以上に、貧しい人や困っている人を助けるためという理由で、収穫を増やしてくださったのではないかとは、全く考えていません。

たとえ話の結末は、「神に対して富む」(新共同訳では、「神の前に豊かに」なる)ことについて語っています。それはどういう意味なのでしょう。このたとえ話の後に続く節(ルカ12:22–34)で、イエスは自分の人生や衣食について神に信頼することを語っておられます。神が、倉も納屋も持たないカラスを養ってくださり、野のユリを着飾らせてくださるのだから、私たちのことも世話してくださると言われたのです。神に信頼し、神の御国を求めるならば、神が私たちを世話してくださるのだと教えられたわけです。神に信頼し、神を尋ね求め、神の御旨を行うことで、私たちは、古びることのない財布と、尽きることのない天の宝によって、自分たちに必要なものを得るのです。

イエスは、天国に宝を積むよう教えておられます。神を認め、神の求められることを行い、神の教えに従って生き、神が求めておられることである神の御旨を行うよう努める時に、私たちは神の前に豊かになるのです。

このたとえ話は、私たち全員に語りかけています。皆、生きるために、資産は必要です。できれば、将来のためにお金を取っておくのは賢明なことです。財産や必要なお金があることについて、本質的に間違った所は何もありません。富それ自体は悪ではありません。けれども、聖書は、富を頼みとしてはいけないと教えているし(箴言11:28) 、イエスはこの世の思い煩いと、富の惑わしがいかにして御言葉をふさぐかを警告しておられます。(マタイ13:22

こう自問してみるといいでしょう。自分が持つすべては、実際、神のものであることに気づいているだろうか。そうだとしたら、自分たちのお金をどう使い、管理するかについて、神に答えを求めているだろうか。神が供給してくださったものについて、神に感謝し、賛美しているだろうか。神が経済的に祝福してくださった時、今度は、他の困っている人たちを祝福するだろうか。献金や捧げ物により、神やその仕事にお返しをすることによって、神をあがめるでしょうか。

イエスがこのたとえ話によって教えられたのは、私たちクリスチャンは経済的な状態がどうであれ、神の前に豊かになって、天に宝を積むように求められているということです。聖書は、「たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」教えているのです。(1テモテ6:17)

私たちがあらゆる選択において、まず神の国と神の義を求められますように。(マタイ6:33) また、物の使い方についてや、私たちの人生とクリスチャンとしての奉仕のすべての面について、主の御心と目的に従うよう努められますように。そして、私たちが神に前に豊かになることができますように。

2014年6月初版 2025年2月改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 298–300.

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