4月 11, 2025
第1テサロニケ4章で、パウロはすでに亡くなったクリスチャンを話題に取り上げて、こう書いています。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(1テサロニケ4:13) パウロは、亡くなった人について、ここでは「眠っている人々」というメタファーを用いましたが、数節後には、彼らを「死んだ人々」と呼んでいます。(1テサロニケ4:16)
パウロが、すでに死んだクリスチャンについて、信徒たちに無知でいてもらいたくなかったのは、彼らが「望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないため」です。パウロは、クリスチャンは愛する人が亡くなっても悲しむべきではないと言っているのではありません。この点については、ある著者もこう書いています。「彼らの悲しみは、キリストの復活とその来臨の約束に基づく希望があるのだと知ることで、和らぐのです。」[1]
パウロは、続けてこう書いています。「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」(1テサロニケ4:14) 教会の基本的信条の一つは、その時も現在も、「イエスが死んで復活された」ということです。パウロはおそらく、当時の信徒たちの間に伝わっていて、テサロニケ教会でも用いられていた信条を引用したのでしょう。このように、イエスの死と復活が、信者の復活を保証するものであるとされたのです。(ローマ8:11; 2コリント4:14)
「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。」(1テサロニケ4:15) イエスが再臨される時に、生きている信者がすでに死んだ信者より先になることはないと知ることは、何らかの理由により、テサロニケの信徒たちにとって重要だったようです。
その後、このように続きます。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり…。」(1テサロニケ4:16)
この節で、パウロはイエスの「来臨(再臨)」に言及しています。来臨と訳されたギリシャ語の言葉はパルーシアで、一般的に、町を訪れる君主や支配者による輝かしい来訪を意味しています。そのような来訪を受けるにあたり、大きな祝典が開かれ、宴会、来訪者を称えるスピーチ、像の奉献、アーチや建築物の建設などが行われました。また、町の役人や住民は特別な衣装をまとい、町の外まで君主を迎えに行って、町へと案内しました。
パウロは、イエスの来臨とそれに伴う栄光とセレモニーを描写するために、また、テサロニケの信徒たちに、生きている人も死んだ人も、全てのクリスチャンがこの素晴らしい出来事にあずかるのだと安心させるために、このパルーシアの概念を用いたのです。イエスの再臨は、ひそかに起こるのではありません。まず、合図の号令があります。誰がこの号令を発するのかは記されていませんが、キリストにあって死んだ人々に復活するよう命じられる父なる神が、そうされるのかもしれません。
イエスの再臨には「天使のかしら(大天使)の声」と、「神のラッパの鳴り響く」音が伴います。パウロの時代のラッパは、軍事演習や葬列などで用いられていました。この場合、死んでいた人々が神の集合ラッパを聞いて、復活せよという命令に応じるわけです。ここと、第1コリント15章52節で、この神のラッパは死者に復活を命じるものとなっています。
神のラッパの鳴り響く音が聞こえると、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」ます。すべての死者がこの時によみがえるわけではなく、生前にキリストによる救いを受けていた人だけです。パウロはテサロニケの人たちに、イエスが再臨されるとき、すでに死んだクリスチャンがその場にいることをはっきり知ってほしかったのでした。
パウロは続けてこう言っています。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(1テサロニケ4:17) しばしば「携挙」と呼ばれている主のパルーシアのとき、まず死んでいた人々がよみがえってから、生きているクリスチャンが彼らと一緒になり、共に主に会いに行きます。この2つのグループが合流した時、彼らは「共に … 引き上げられ」るのです。
パウロは、空中で主に会うことについて書くにあたり、それは復活した信者と生きている信者の体であり、ただ魂だけが主に会うのではないことを指摘しています。それがどのように起こるのかは説明していませんが、この手紙や他の手紙でパウロが書いていることから、人の体が死ぬことのない状態に変えられると考えていたことがわかります。他の箇所で、パウロはイエスが「万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と書いています。(ピリピ3:20–21)
復活した後のことについては、先ほどの節に「いつも主と共にいるであろう」と記されています。キリストが再臨される時、全ての信者は、死んだ人も生きている人も、私たちの王であり救い主であるイエスと結び合わされ、「こうして、いつも主と共にいる」ことになるのです。
第1テサロニケ5章で、パウロは「主の日はいつ来るのか」という、テサロニケの信徒たちの質問に答えて、こう書いています。「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。」(1テサロニケ5:1–2)
パウロが主の日はいつ来るのかという質問を取り上げたのは不思議ではありません。ユダヤ教の文献でも聖書においても、この主題に多くの焦点が当てられていました。ダニエル書には、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」という質問が記されています。(ダニエル12:6 新共同訳) イエスがオリブ山におられた時には、弟子たちがイエスにこう尋ねました。「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか。」(マタイ24:3) イエスは、「主の日」がいつ来るのかを知っておられるのは父だけであると明言されています。(マタイ24:36; 使徒1:6–7)
聖書で「主の日」と言えば、多くの場合、主が地上の人々を裁くために来て、罪ゆえに怒りを注がれる時のことを指します。[2] しかし、神の民にとって、「主の日」は救いの日となります。(ゼカリヤ14:1–21) パウロの手紙で、この出来事は「主イエス・キリストの日」と呼ばれています。(1コリント1:8; ピリピ1:6, 9–10)
その日がいつ来るのか、信者たちには分からないので、いつも備えておくことが求められています。これは、過去、現在、将来のすべてのクリスチャンに言えることです。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカ12:39–40) 「主の日」は、夜中に泥棒が家に押し入るように、突然思いがけないときに訪れます。パウロは、終わりの時のしるし(兆候)が何もないとは言っていません。ただ、キリストの再臨の時期を正確に知ることは不可能なので、常に備えているように強調したかったのでした。
パウロは、主は思いがけない時に来られると述べた上で、非信者は来るべき裁きから逃れることが出来ないと説明しています。「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」(1テサロニケ5:3)
それからパウロは、テサロニケの信者を非信者と対比させて、こう言います。「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。」(1テサロニケ5:4) パウロが言っているのは、「その日」がいつ来るのかを教会が知るようになるということではなく、クリスチャンは終わりの時の出来事に備えているので、暗闇の中にはいないということです。
新約聖書の著者たちは、救いを暗闇から光への移行と表現しています。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。」(エペソ5:8) 「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) テサロニケの信徒たち(そして、クリスチャン全般)は皆信じる者たちなので備えができており、その日を心待ちにできます。
パウロは次に、「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない」と言いました。(1テサロニケ5:5) 「光の子」とは、暗闇から救われ、今は「光」の国に属する人のことです。使徒ペテロも、こう書いています。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」(1ペテロ2:9)
この時点で、使徒パウロは、「わたしたち」クリスチャン全般がすることへと、話を移しています。「だから、[わたしたちは]ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。」(1テサロニケ5:6) 今は、光の子としてそれに見合った行動をするよう求められているのです。ある著者は、このように語っています。「クリスチャンの振る舞いは、『ほかの人々』、つまり道徳的無関心と罪という『眠り』が象徴する非信者の振る舞いとは異なっているべきです。」[3]
パウロはテサロニケの信者たちに、罪によって「眠っていないで」、[英訳聖書での訳し方によって]「目をさましてしらふでいよう」、「油断することなく、自制しよう」と語っています。これは霊的にも道徳的にも油断することなく、注意を怠らず、自制心を働かせるべきだということです。さらにこう続きます。「しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。」(1テサロニケ5:8) 主の日のために身を慎み、備えているだけでなく、信者たちは信仰、愛、希望といったクリスチャンの徳の武具を身に着けているべきです。
パウロは次に、クリスチャンと非信者の運命の違いについて語っています。 「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」(1テサロニケ5:9–10) 主が再臨される際に、クリスチャンは救いを得ると説明しています。人が救いを受けるのは、自分がそれに値するからではなく、神の愛と恵みのゆえであり、イエスの犠牲的な死と復活によるのです。この最終的な救いは、主イエス・キリストと共に生きることとして描かれています。なんて素晴らしいことでしょう。
パウロはこの章を「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」と締めています。(1テサロニケ5:11) テサロニケの信徒たちは、キリストにあって死んだ者たちについての質問に関連して、主の日のことで心配していたのです。パウロは彼らに、互いに励まし合い、慰め合い、そして、神が生きている者とすでに亡くなった者の両方に救いをもたらしてくださったことを互いに思い起こしなさいと告げました。これが、私たちへの励ましにもなりますように。
初版は2023年3月 2025年3月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク
1 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: Eerdmans, 2002), 219.
3 Green, The Letters to the Thessalonians, 238.
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