4月 17, 2025
「神はご自身の民の賛美を住まいとしておられる」という表現は、英語欽定訳聖書の詩篇22篇3節で神について書かれた、「しかし、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」という言葉に由来しています。この節は他の翻訳聖書で、「しかし、あなたは聖なる方として御座に着き、イスラエルの賛美を受けられる方です」とも訳されています。(英語NIV訳)…
この詩篇22篇は、ダビデ王が書いたものと考えられています。それは苦悩の叫びであり、興味深いことに、そこで描かれていることの多くが、千年も後にイエスの十字架刑の際に起こったことと驚くほど似通っているのです。… この嘆きの詩篇の大部分では、ダビデがひどく心を痛め、主に拒絶されたと感じながら、過去に救われたときのことを思い出し、神に助けを求める姿が描かれています。「あなたは聖なるお方であるけれど、とても遠くに感じる」・・ダビデは要するに、神に向かってそう言っているのです。「しかし、私たちの先祖はあなたを賛美して信頼し、それに対して、あなたは彼らを救われたので、私も同じようにします」と。…
ダビデは、神が確かに「ご自身の民の賛美を住まいとしておられる」のだというこの言葉によって、たとえ絶望的に思えるようなことがあっても、どんな状況においても神を賛美すべきであることを、自分に言い聞かせているのだと考えられます。
神を賛美することの大切さは、聖書(旧約・新約共に)を通じて、何百回も言及されています。神を賛美するとは、神がいかに素晴らしく偉大なお方であることを私たちが信じているか、また、どれほど神を愛しているかということを告げたり、他のさまざまな方法で表現することです。それは言葉によって(例えば、祈り、教え、歌、文章などの形で)行うこともできるし、ダンスや絵画、あるいは静寂のひとときの中でただ愛をもって神に心を開くといった、他の表現方法によってもできます。賛美とは、神の戒めに耳を傾けて、神こそが主であると知ることであり、その戒めを守り、神の御子であり私たちの救い主であるイエスに従うべきだと理解することです。
ヘブル書は、賛美についてある見方を示しています。それは、「さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげ」ることです。(ヘブル13:15)… 私たちは、良いときも悪いときも、常に神を賛美すべきなのです。使徒パウロは、テサロニケにあった初期の教会への手紙の中で、信徒たちにこう伝えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(1テサロニケ5:16–18)
聖書には、神が常に私たちの祈りを聞き、常に私たちと共にいてくださると書かれています。イザヤ65章24節にも、こうあります。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」… 神の臨在は確かなものであると知っているからこそ、私たちは神がそこにおられると心からわかるのです。良いときも悪いときも、神が常に耳を傾け、常に私たちと共にいてくださると。モーセもこう語っています。「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない。」(申命記31:8)
詩篇22篇は、この真実を思い起こさせてくれます。なぜなら、神が遠くにおられると感じたとしても、実際はそうでないからです。私たちがすべてのことにおいて賛美し、礼拝することを、神は望んでおられます。神は聞いておられるし、間違いなくそこにおられるのです。だから、晴れの日にも嵐の日にも、神を賛美しましょう。神はそこにおられるのです。—ジェシカ・ブロディ [1]
イエスを信じる私たちにとって、神から永遠に隔てられた状態から私たちを救うために、イエスが命を捨ててくださったことを考えると、感謝の気持ちが自然と湧き上がって当然です。足取りが軽くなり、あまり良くない経験もどうってことなくなるほどに。それなのに、私は感謝からかけ離れた反応をしてしまいがちです。渋滞や混乱状態、ストレス、少なすぎ、多すぎなど、そういった場合に私たちがどう反応してしまうかは、皆さんもご存知でしょう。
それでも、日々の些細な事柄は、大局的な見方からすれば大した問題ではないとわかっているし、心に喜びを感じていたいのは確かです。そこで、もっとポジティブな反応や見方ができるよう、私が意識してきたことが3つあるので、それを紹介したいと思います。
小さなことに感謝する: 数え切れないほど多くある、喜びを与えてくれる小さなことに気づくよう心がけています。朝焼けと夕焼け、一杯の美味しいコーヒー、爽やかな朝の空気、子どもの笑い声、夫のたくましい腕、読み応えのある本、心地よい枕など、例を挙げればきりがありません。そのようにとめどなく続く小さな喜びを心に留めておくならば、人生で遭遇する困難の衝撃が見事に和らげられる、ということに私は気づきました。
こうあるべきだという結果に執着しない: これは難しいことです。何かが特定の結果になるべきだと非常に強く感じるときはありますが、すべてが自分の思い通りになるわけではありません。私には、「どちらに転んでも、感謝します」と言うのが難しいことがよくあります。診断結果が芳しくなかったり、就職で不採用になったりということを感謝したい人なんていませんから。でも、私は、感謝の気持ちというのは結果によるのではなく、神が恵み深き方であるという事実に基づいたものであるべきだと学びました。常にそうなのです。たとえ神の恵み深さの表れが、私の理解を超えている時であっても。
神の恵み深さを思い出す: これまで、どれだけ心配し、どれだけ窮地に陥り、どれだけ苦しい旅をした時にも、ちゃんと切り抜けてこられました。そういった困難にあっても、私が完全に壊滅状態になることはなかったし、神の愛が私を見つけられないほど遠くへ押しやられたこともありません。パウロも、「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と語っています。(ローマ5:4 新改訳2017) 立ち止まって神の恵み深さを思い出す時、その真実が私の心にあふれ、再び感謝に満ちたものの見方ができるようになるのです。—マリー・アルベロ
天国は、神が賛美に囲まれている場所であり、聖書にはそこが神の宮(神殿)であると記されています。(詩篇11:4; ハバクク2:20) それでいて、そこは神が最終的にその民と共に住まわれる場所です。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(黙示録21:3 新改訳2017; こちらも参照: 黙示録21:22) イエス・キリストは、ご自身が神の神殿であることを明かされました。(ヨハネ2:19–21) そして今、神の臨在がイエスの体である教会にとどまっています。(1コリント3:16–17)
聖書は、クリスチャン一人ひとりが「生ける神の宮」であり、神の臨在がとどまる「聖霊の宮」であることを、繰り返し断言しています。(1コリント6:19; 2コリント6:16) そして、パウロはエペソ2章21–22節で、教会全体が「組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、 … 主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなる」と説明しています。…
神は今も、ご自身の民の賛美を住まいとしておられます。私たちがどんな状況にあっても、神は聖なるお方であり、すべてのことを正しくなさることを私たちは知っています。ですから、私たちは苦境にあっても、主を礼拝できるのです。—GotQuestions.org [2]
私たちが神の愛を最も強く感じるのは、神の御心に意識を集中させ、神への賛美と人生の目的に完全に身を捧げているときです。私たちは、神の内にとどまる(神におる)よう教えられており、それは、神の御名をあがめるために生き、動くべきだということです。この「とどまる」と訳された言葉には、「住まい」のニュアンスがあります。私たちは神の臨在の内に生きるよう命じられているのです。…
神は、私たちの人生のあらゆる領域で、御心を行おうとしておられます。しかし、それは、まるで私たちに自由意志がないかのように、私たちの行動を直接支配しようというわけではありません。そうではなく、私たちが自分の意志を神に委ねるとき、神は私たちの想像をはるかに超えた方法で、自由に私たちの内に働くことができるということです。
私たちの賛美は、神が私たちの心の中に入り、働きかけるための主要な通り道です。礼拝するとき、私たちは神に全神経を向けるべきであり、簡単に言えば、礼拝とは、物事の価値を神に帰すことなのです。今日、ほとんどの人は賛美=音楽と考えています。確かに、音楽は礼拝での賛美の大切な側面ではあります。しかし、それ以上のものなのです。
真の賛美は、毎日毎分の生活の中に息づいているものです。パウロはローマ書の中で、自分の体を供え物として捧げ、聖霊によって絶えず心を新たにされるべきであると教えています。そして、それが神に受け入れられる礼拝だと言います。(ローマ12:1–2) 心からの礼拝は、私たちが歌いうるどんな賛美歌よりもはるかに素晴らしいものであり、それは、あわれみと恵みゆえに神を賛美し、その恵みとあわれみによって人生がどのように変えられたかを他者に示そうと努める生き方そのものです。
神はさまざまな方法で人々を助けることができ、私たちの心に常に直接働きかけてくださいます。しかし、私たちは地上における神の使者として、私たちが誰のために生きているのかを他の人々が知って、天の神を崇めるように、賛美の生活を送るよう召されているのです。自らを人生における神の御心に完全に委ね、言葉と行いによってすべての栄光と賛美を神に捧げるとき、神の力と権能が私たちの内に宿り、世界の他の人々にも輝きを放ちます。聖霊は、私たちが信者になったとき、私たちの心の中に住み始めており、その力は私たちの思考、行動、他者との交わりに示されます。
中でも最も素晴らしいのは、神が私たちの礼拝の中に足を踏み入れ、その礼拝を通してご自身が崇められるようにしてくださるということです。… 神の臨在が心にとどまり、礼拝を通して輝きを放つことでしょう。—ConnectUs [3]
2024年9月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエ 音楽:ジョン・リッスン
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