タラントのたとえ話

3月 22, 2025

The Parable of the Talents
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マラ・ホドラー

友人の12歳の娘ジェナイは、体操選手育成プログラムに参加しています。週16時間練習しているので、1週間に4回通うことになります。3時半に学校に迎えが来て体操クラブに行き、それから夜8時まで練習します。体操クラブに行くまでの車の中で宿題をし、終わらなかった分は練習後にします。そして、帰りの車の中で夕食を食べるのです。

このプログラムに参加したいと言い出したのはジェナイで、家族が無理にやらせているわけではありません。彼女は体操が大好きで、とことん可能性を伸ばしたいと思っています。育成プログラムに入る数年間は週に4~8時間練習していました。メダルもたくさん獲得し、彼女のレベルでは、この地域で一番の選手だと考えられてきました。去年、体操で大学への奨学金を得たいと思い、それで、育成プログラムに参加したのです。

プログラムに参加して数ヵ月した頃、ジェナイは練習がかなり大変だと認めました。何度も平均台で後ろ歩きを練習するのではなく、普通の12歳の女子のように友だちと一緒にいたい日もあります。勉強と体操の両立が思うようにいかず、イライラすることもあります。その上、前のレベルでは「アドバンス」だったのに、新しいレベルでは「ビギナー」になったことにも辛さを感じています。コーチ陣は参加者にとても期待しています。彼らは女子に側転を教えているのではなく、競技会で勝てる選手を育成しようとしているのですから。

正直なところ、12歳の女子にとって荷が重すぎると思います。それなのに、なぜ彼女は体操を続けるのでしょうか。なぜなら夢をかなえようとしているからです。極めたいからです。自分の才能を伸ばしているのです。今は辛くても、彼女が後悔するとは思えません。彼女は「体操の技術を伸ばすために他に何ができたかしら。機会を逃したのではないかしら」と思うことはないでしょう。

私たちの多くは、才能を極めようとそこまで自らを追い込むことはしません。何かを気に入ったとしても、そのためのコミットメントや自己鍛錬、ハードワークを考えると、思いとどまってしまうのです。夢や情熱を語らなくなり、「そこまでできない」と言ってしまいます。けれども、私たちには卓越した者になり、才能を磨き、可能な限り最高の者になり、極める機会が一人一人にあります。ただ決心しなければならないだけです。

イエスはこの点に関するとても興味深い話を語りました。タラントのたとえ話です。ある金持ちが旅に出ました。彼は3人の信頼できるしもべを呼び、自分がいない間、財産を管理するよう告げました。彼はきっとそれぞれの性格と能力をわかっていたのでしょう。そして、その評価に基づいて一人一人に何タラントかを渡しました。

最初のしもべには5タラント、2番目のしもべには2タラント、最後のしもべには1タラントです。さて、1タラントは小銭入れに入るような金額ではありません。1タラントというのは約36キロの銀と同額でした。そして、通貨単位で言えば6000デナリで、20年分の一般的な平均年収と同じぐらいだったのです。さらに「命の価格」として考えられていました。時に、有罪判決を受けた犯罪人は、1タラントで自由を買うことができたのです。ですから、5タラントをもらった人はものすごいチャンスをもらったことになりますが、1タラントでもかなりの価値があります。

主人はしばらく留守にした後、戻ってきて、しもべたちがタラントをどうしたか、知りたがりました。最初のしもべは言いました。「主よ、あなたは私に5タラント渡しました。私は投資して2倍にしました。」 主人はとても喜び、「よくやった、良き忠実なしもべよ。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言いました。

2番目のしもべも、渡されたタラントを2倍に増やし、主人から同じ褒め言葉を告げられました。ところが3番目のしもべが同じ質問を尋ねられた時、彼の返答は違っていました。「恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ここにあなたのお金がございます。」

主人の返答は、その言葉に対して少しも同情的ではありませんでした。「悪い怠惰なしもべよ、それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、私は帰って来て、利子と一緒に私のお金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取り上げて、10タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗い所に追い出すがよい。」

3番目のしもべは安全策を取っていました。タラントを隠すことによって、主人が戻ってきた時、少なくとも1タラントは確保できているようにしたのです。けれども、主人はしもべがそのタラントを使って何かするのを見たかったのでした。(タラントのたとえ話は、マタイ25:14–30ルカ19:12–27で読むことができます。)

主人にとって、しもべが最初どれだけ持っていたかは関係なかったようです。持っていたもので何をしたかが重要だったのです。このたとえ話が現在、私たちが「タレント」という言葉を使うようになった理由だとする学者もいます。「タレント」(英語のtalent)は、賜物や能力、技能を意味します。そのようにこの話を考慮すると、明らかに神が与えられた賜物や才能、能力を使って何かをするよう期待されているのがわかります。

私は自分の才能を磨こうとしているジェナイの姿に感心しています。彼女が自己鍛錬や犠牲、コミットメントから学んでいることは、非常に価値あることだと思います。

神があなたに才能や技能を与え、それを伸ばすように求められているなら、それに「投資」しましょう。神の栄光のために、磨くのです。そうすれば、人生の旅が終わった時に、「よくやった」という神の声を聞くことになるでしょう。

若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更

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