参加すべき競走を走りぬく

2月 18, 2025

The Race That Is Set Before Us
December 27, 2023

ウィリアム・B・マグラス

ヘブル12:1には、「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」とあります。これは、創造主によって私たちの前に置かれた人生の競走のことを指しています。神が個人個人を「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる」(ピリピ3:14)、その召しのことです。

神が望まれる競走を走ると決めることで、私はいつまでも残る永遠の目標に向かう競走の勝者になれるよう、神の臨在が私を霊感し、指導し、助けてくださるのを経験できます。それは、私を夢中にしてくれるどんな競走よりも充実した競走です。主が私のためにあつらえ、カスタムフィットさせ、創造してくださった競走なのです。

この競走には、日常生活の一見小さなことや、信心深さを培う思考と行動の習慣も含まれます。続きのヘブル12:2には、この競走を走るときには、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び …」とあります。だから私は、イエスがどのように競走を走られたかを見て、できる限りイエスの模範に倣いたいです。私は、人生の小さな苛立ちを乗り越えて、自分の十字架を日々負うのを助けてくださるよう、主にお願いします(マタイ16:24)。なぜなら、私の前には永遠の報いが用意されているからです(ヨハネ14:3)。

私が通る困難は私には理解しがたいものかもしれませんが、天におられる私の大祭司が理解してくださり、私のためにとりなしてくださることを知っています(ヘブル4:15)。主は、私に耐え忍ぶのを許される困難の結末を見ておられ、私を「精錬」しておられます。主は私の味方です。現世における私の「軽い患難」は、私のために働いて「永遠の重い栄光を、あふれるばかりに」得させるのです(2コリント4:17)。

イエスの御言葉を通してイエスにとどまるとき、私は御霊の促しに協力し、自分の意志を捨て、主の競走が私を連れて行く方向に従うことを学んでいます。主は誘惑に抵抗する力を与え、御霊の実である愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22–23)を育むのを助けてくださいます。私は、生涯を通して主の競走を走り続けることが、これまでに下した最良の選択であったことを知っています。この競走は、私の想像をはるかに超えるものであり、最もやりがいのある、人生を豊かにしてくれる生涯の競走であることがますます分かってきています。

競走には、抵抗、トレーニング、他の走者が含まれます。私が直面する主な抵抗は、自分の古い現世的な性質だと思います。この競走はマラソンであって、短距離走ではありません。私の古い性質は、生ぬるい状態でいるためによく使われる言い訳を受け入れるよう誘惑してきますが、その性質よりも優位に立つには、根気と忍耐が必要です。神の御霊に洗われ、新たにされ、コースに留まるための力を与えていただかなければならないのです。

この世は言います。「成功者になれ。経済的成功、権力、支配、地位への階段を登れ。すべてを手に入れろ。今すぐに!」 しかし、私たちの内におられるキリストの性質は、お金では買えないものを与えてくれます。それは、真の平安や永遠の命であり、地上の苦しむ子供たちを主の愛に引き戻すという務めです。

聖書はまた、この競走を走ることを、兵卒の戦い(2テモテ2:3)や走者のトレーニング(1コリント9:24)に例えています。これは必ずしも簡単ではなく、個人的に言えば、私の闘いの最も大きな部分は、一貫してプライドを抑えることを学ぶという、自分の思いの中にある闘いなのです。ことわざにもあるように 「最大の敵は自分自身」です。キリストの競走を走っているときでさえ、自分は何かができるとか、知識があるとか、尊敬に値するとか、そういったことを証明したいという願望があります。しかし、キリストが布教なさっていた時はずっと、謙虚な人、貧しい人、打ちひしがれている人、見知らぬ人など、ありふれた人々や庶民を高く評価しておられたことは明らかです。キリストが選ばれた12使徒たちは、社会のエリートではなく、庶民でした。

最後に、私が参加するよう神が与えられたこの競走を走るということが、私にとってどのような意味を持つのか、二つの引用文で表現したいと思います。

「あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(コロサイ1:27)。私たちの誰もができる最大のことは、キリストのために生きることではなく、キリストを生きることです。神聖な生き方とは何でしょう。それはキリストの生き方です。クリスチャンになることではなく、キリストのような者になることです。何か偉大なことをしたり、偉大な者になろうとすることではなく、キリストをいただき、私たちの内にあってキリストにご自身の人生を生きていただくことです。そして、キリストの内にとどまり、キリストが私たちの内にとどまり、キリストの恵み、キリストの信仰、キリストの献身、キリストの愛、キリストの忍耐、キリストの優しさ、キリストの言葉を私たちの内に反映していただくことです。… これは同時に、最も崇高で、最もシンプルな生き方でもあります。それは、人間の完璧さよりも高い基準ですが、貧しく、罪深く、不完全な人間でも、完全なキリストが私たちの内に住んでくださることによって、それを実現することができるのです。私たちがそのように生きられるように、また、それによって、キリストの生涯のシンプルさ、美しさ、栄光、力を周囲の人々にとって現実のものとすることができるように、神が助けたまわんことを。—チャールズ・E・カウマン [1]

私たちの多くには、毎日おきまりの雑用があります。朝の鐘は平凡な日課をこなすよう私たちに呼びかけており、何か本当に英雄的なことや、生きている価値のあることをするチャンスなどないかのように思えます。忠実に、時間厳守で、徹底的に、敬虔に、日常生活の小さな義務を果たすことが、人の賞賛のためではなく、イエス・キリストに「よくやった」という言葉をいただくためであり、報酬を受け取るためではなく、神がご自身の偉大な世界でなすべき小さな仕事を私たちに与えてくださったからだという教訓を、私たちはいつになったら学ぶのでしょうか。そうしなければならないからではなく、自分がそうすることを選んだからであり、状況に翻弄される奴隷としてではなく、主のことを思いながら、「人に対してではなく、主に対して」、キリストに解放された者としてそれを行うのです(コロサイ3:23)。そうすれば、平凡な生活という波のはるか下に、人格の基礎が築かれます。… それゆえ、私たちは日常生活のありふれた仕事について不平を言うことに、注意しなければなりません。… 素晴らしい動機をもって、神のため、真理のため、他の人のために些細なことをするのは、不平の霊で偉大で重要なことをするよりも大いなることです。十字架にかかり、殉教者として一度死ぬよりも、毎日、千の刺されるような苦しみを辛抱強く味わうほうが偉大なことです。無名の人生は、人が偉業と呼ぶようなどんな偉業よりも、より高尚な人格を育み、クリスチャンとしての恵みを成長させる、実に多くの機会を与えてくれるのです。—バージニア・ブラント・バーグ [2]


1 Mrs. Charles E. Cowman, Springs in the Valley, August 3.

2 Virginia Brandt Berg, “The Commonplace.”

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