恐れと心配を克服する

1月 21, 2025

Overcoming Fear and Worry
October 28, 2024

「より幸せな人生の秘訣」シリーズ

オーディオ所要時間: 10:30
オーディオ・ダウンロード(英語) (9.6MB)

課題

人生の重荷や思い煩い、失望が、耐えられないほど重いと感じたことはありますか? 愛する人を失い、悲しみに満たされたことはありますか? 夫や妻、家族との問題が、相互の関係を乱していますか? 事故や重い病気に怯えたり落ち込んだりしていますか? 友人や同僚からの助けを最も必要としていたときに、彼らに失望させられたり裏切られたりしたことがありますか? 金銭的な困難や経済的なプレッシャーのせいで、不安や絶望でいっぱいになっていますか? 子どもや家族のことが心配で、眠れない夜を過ごしたことがありますか? もしあなたが困難や苦難、個人的な危機を経験しているのなら、この話が、そういった困難な時に力と励ましを与えてくれるでしょう。

平和をテーマにしたあるコンテストで、一枚の絵画が受賞しました。ほとんどの画家は静かで穏やかな田園風景を描きました。全くの静けさです。それも平和の一つの形ではありますが、受賞した絵は、到達するのが最も難しい種類の平和でした。轟音を立てて荒れ狂う急流、泡立ち、荒れ狂う川の絵だったのです。しかし、濁流の上に張り出した細い枝の上には、小さくて可愛らしい巣があり、小さな鳥がそこに止まって、嵐にもかかわらず平和にさえずっていました。そう、嵐の中でこそ、信仰が試されるのです。

J・R・ミラーはある説教で、心配することのむなしさについて語ったことがあります。

心配は無駄な行為です。背の低い人がいくら心配しても、身長を1インチでも伸ばせません。ですから、あと1インチ背が高ければと願って、エネルギーを浪費し、人生を思い煩うなんて、無駄ではないですか? 背が低くて悩む人もいれば、背が高くて悩む人もいます。ハゲで悩む人もいれば、顔にホクロがあって悩む人もいます。いくら悩んでも、これらのことは何も変わりません。私たちは、自分たちの境遇を心配しすぎることもあります。貧しく、懸命に働かなければならない。自分の力ではどうすることもできないような問題や損失、失望に見舞われている。自分のいる環境で、乗り越えることのできない困難に遭遇している。そのように、自分では変えることのできない厳しい状況があるものです。

さて、なぜこのようなことを心配しなければならないのでしょう? 心配することで事態は好転するのでしょうか? 不満が髪の毛を生やしたり、ホクロを取ったり、体重を減らしたり、やせた体に肉をつけたりするのでしょうか? イライラすれば、重労働が楽になり、重荷が負いやすくなり、問題が減るのでしょうか? 不安は寒さを遠ざけ、嵐を遠ざけ、皿にご飯を盛り、子供たちに服をくれるのでしょうか? 優れた哲学でさえ、心配することは無駄だと示しています。それは何の助けにもならず、ただ力を浪費し、その人が最善を尽くせないようにするからです。

キリスト教の福音はさらに踏み込んで、もし私たちが正しい霊で向き合うなら、困難なことや障害さえも祝福であると言います。それらは私たちの足を上へと持ち上げてくれる踏み石であり、鍛錬であって、私たちはそれによって成長するのです。ですから、私たちは、静かに、信仰を持って、自分に降りかかってくる人生を受け入れた上で、何も思い悩まずに、できることなら困難な状況をより容易なものに変えるべきだと学びます。そして、もしできないのであれば、それを成長と進歩のための手段として使うべきです。—J・R・ミラー

聖書の言葉は...

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。—マタイ6:25–34

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、... 守るであろう。—ピリピ 4:7

心配とはロッキングチェアのよう。何かやることを与えてはくれるが、決してどこにも進むことがない。—アーマ・ボンベックの言葉とされる

毎日少し心配すると、一生で2、3年は損をする。何か問題があれば、直せるものなら直しなさい。しかし、心配しないように自分を訓練しなさい。心配しても何も解決しない。—アーネスト・ヘミングウェイ

灯りがつくまで待ちなさい

ある日の夕方、一人になりたかった私は、見知らぬ大聖堂に入り、静けさと薄暗さの中に腰を下ろしました。その時間帯、その場所は陰気で、神の家にいるとわかっていなければ、そこにいたいという気にはならなかったでしょう。窓は特に不気味でした。やがて管理人が近づいてきたので、戸締りをするから出て行ってほしいのかと思い、私はそこを去ろうとしました。「違うんです」と彼は小声で言いました。「灯りがつくまで行かないで、灯りがつくまでお待ちなさい。」 それで私は待っていました。部屋はさらに暗くなり、影は濃くなり、窓は醜く、不快で、私はその場を去りたくて仕方がありませんでした。その時、突然、外の街灯が灯り、そこの光景全体が奇跡的に一変したのです!

なんと美しい変わりようでしょう。あのような絶妙な色合いは見たことがないと思います。ステンドグラスの窓が素晴らしい色彩の光を放ち、天国を暗示しています。すべてがこの世のものとは思われない美しさで引き立てられ、私の魂を養いました。私はそれをとらえ、永遠にとっておきたいと思いました。そのとき私は、私自身の霊を何度も覆ってきた暗闇や落胆を思い浮かべました。そして、希望という喜びが魂に差し込み、その光が魂に溢れると、いかに暗闇や落胆は消え去る以外ないのかを。私はその年老いた管理人からある秘密を学びました。そうです、私は学びました。そして、それ以来何度もそのことを考えました。「灯りがつくまで待ちなさい」と。—フランシス・E・シーワース

考えてみよう...

聖書の言葉は...

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。—ヨハネ14:27

あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。—申命記31:6

2024年10月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス

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