1月 31, 2025
人格を表す「誠実さ」という言葉は、幅広い解釈の仕方がされています。人によって、「誠実に行動する」という意味は、個人の状況に合わせて姿を変えます。けれども、真の誠実さは御影石の礎石のように人格を築く確固たる要素です。それが一度土台の一部になってしまえば、弱い部分に合わせたり、他の石はどうしているかなあ、などと、他の様子を気にしたりすることはありません。それはしっかりと揺るぎなく立ち、なくてはならない存在になります。それなしに建物は持ちこたえません。誠実さもそれと同じです。それなしでは個人も社会も成功しません。ここで、誠実さに欠かせない要素を見ていきましょう。
これは、18世紀の作家ジュニアスの言葉です。「人の誠実さは、その人の職業ではなく、日頃の行いによって測られる。」
どこかで聞いたような言葉ですね。私の一番のお気に入りの「作家」であるイエス・キリストもこのように語っています。「あなたがたは、その実によって彼らを見分けるであろう。」(マタイ7:16)
誠実さと聞いて、何を思い浮かべますか。誰かがあなたに誠実に接しているかどうかを、どこで判断しますか。私自身は、相手が私との接し方に気を配り、私と接する時に良識と信頼をもって振る舞っているかどうかで判断します。私が「あの人は誠実だ」と言う時、それはすべての状況における相手の道徳レベルについて話しています。正しいことのためなら自分の損失となっても実行してくれ、妥協や嘘、だまし、利益のためにそれを回避しようとする誘惑を拒んでくれるだろうと考えます。言葉の意味を明確にするなら、もっとよく理解することができるものです。積極的な誠実さとは、正しいとわかっていることについて、私たちや人々が何をするかによります。
聖書はこう定義しています。「悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。」(2コリント4:2)
それでは、すべての人の良心に自分を推薦するにはどうすればいいのでしょうか。「真理を示す」ことによってです。イエスが「真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」と言った時(ヨハネ8:32)、イエスはただ好ましいたとえを使っていただけだと思いますか。その意味を考えてみましょう。真理は自由のことです。つまり、その逆もしかりです。真理に欠けることは自由に欠けること、または束縛されていることです。
何に束縛されているのでしょうか。箴言11章6節ではこう説明しています。「正しい者はその正義によって救われ、不信実な者は自分の欲によって捕えられる。」 正直に生きないなら、自分の欲、あるいは他の翻訳聖書にあるように欲望や害悪、願望などに捕らわれてしまいます。ここでの要点は、「自分の」ということです。私たちは、自分自身以上の存在になるために、つまり真理であるイエスのようになるために、全力を尽くす必要があります。イエスの真理の内に自由があるからです。
こう考えることができます。誠実さは「あなたの内にあるグリット」と同じだということです。「グリット」という言葉は、性格の説明をする際に、「タフで地に足がついている、確かな勇気と決断力」または「頑固な勇気、勇敢な忍耐力」という意味で使われることがよくあります。その意味からすると、誠実さとは、他に楽な選択肢があるかどうかに関わらず、自分が正しいと知っていることを強情なまでに実行する決断力なのです。正しいとわかっていることに反することをするのが「最も簡単な」状況で、この「グリット」が試されます。どんなことが、まわりで受け入れられ、実践されていたとしても、それは何の違いももたらしません。「グリット」はあなたの一部であり、行動や人間関係、考え方を導きます。そして、クリスチャンにとって、この「グリット」とは、神の御言葉に基づく土台から来ます。
歴史を通じて、近年まで、約束は言葉によって成立しました。「約束」は実行しなくてはならないものです。それは契約を結ぶようなものでした。誰かが「これをする」と約束したなら、たとえ何が起ころうともその通りにすることを意味していました。実行しないなら、その人は自らの名誉を傷つけ、社会的なのけ者になるだけでなく、その家族が約束を果たさなくてはならないと感じたものでした。約束とは軽々しいものではありませんでした。そして、約束するなら本気で実行することを意味しました。言葉と名誉は、最も大切な財産だったのです。
次の質問について考えてみてください。あなたが最も有益で価値があると思う財産は何ですか。それを簡単に捨てることはできますか。できないでしょう。私たちは誠実さを「捨てる」ことに抵抗を感じるべきです。成功したビジネスマンであるアラン・K・シンプソンの言葉を聞いてください。
「あなたに誠実さがあるなら、他に大切なことはない。誠実さがないなら、大切なものは何もない。」
だから、「ただ断りの電話をかければいい」と考えて、土壇場でキャンセルしたり、私たちにとって大したことではないと思って約束を実行しなかったり、言葉と行動が伴っていなかったりするなら、そのような行動は私たちから何かを奪っています。貴重な財産であり、私たちを特徴づけ、導き、豊かにするもの・・・つまり誠実さを奪っているのです。真理が損害を招くかもしれないからといって、言わないでおいた方がいいと考えることがありませんか。そんなことがあるなら、ローマ12章17節を覚えているべきです。「すべての人の前で、正直に事を行いなさい。」(英語欽定訳)
正直さは真理と同じです。真理は自由です。自由は、私たちやまわりにいる人たちへの幸せと同じです。信頼できない人と一緒にいたい人はいません。けれども、言葉ではなく行動で示してくれる人は、誰からも愛されます。
私たちは皆、意識的にかどうかにかかわらず、失敗することがあります。けれども失敗を認め、そのたびに立ちあがって、もう一度試すなら、違いがもたらされます。
イエスの内に強くなれるなら、つまり、正直で率直で、思いやりがあり、高潔で忠実になれるなら、私たちは「誠実」であれます。不安な時期にやり抜く「グリット」や、強い人格と確かな誠実さからなる手本を通して、神の愛を人々に分かち合えるようになるのです。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
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