真夜中の友

1月 15, 2025

The Friend at Midnight
June 17, 2024

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 11:02
オーディオ・ダウンロード(英語) (10.1MB)

福音書は、イエスご自身の祈りの手本と、祈りについて教えられたことの両方を通して、祈りについての基本的な教えを伝えています。ルカは自身の福音書の中で、そのような教えの幾つかを第11章にまとめています。その章はイエスが祈られている所から始まり、祈りが終わると弟子たちは祈ることを教えてくださいと言います。その時、イエスは、主の祈り、あるいはよく「天にいますわれらの父よ」と呼ばれる祈りを祈るよう弟子たちに教えられたのです。

ルカは「祈ることを教えて下さい」のテーマを進める上で、真夜中の友のたとえ話に移りました。これは短いたとえ話で、そのすぐ後に、祈りについて教えている詩のような言葉が続きます。それでは、たとえ話を見ていきましょう。

そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。」(ルカ11:5–8)

イエスはこのたとえ話の最初に、修辞的な長い質問をなさいます。1世紀のユダヤ人なら誰でも、「とんでもない!」と答えるような質問です。イエスは、「夜に隣りの人が来て、思いがけない客に出す食べ物を貸してほしいと言われ、『子どもが寝ているし、戸も締めてしまったから、助けることはできない』と答えるなど、想像できるだろうか」とたずねておられるのです。[訳注:この原文記事で引用されている英訳聖書では、この段落にあるような修辞疑問(反語)の表現となっています。]

答えは、断じてそんなことはしない、です。1世紀のパレスチナにおいて、もてなしというのは、深く根付いた道義であり、個人だけでなく、その村落にも要求されていることでした。この場合、それがどんなに不都合でも、寝ていた男には、床から出て、近所の人にパンを3つ貸す義務があったのです。

イエスの話を聞いていた人のうち、それが何時であっても床から出て、困っている近所の人を助けようとしない人は誰一人いないでしょう。彼らは皆、客をもてなすことがどれだけ大切かを知っていました。子どもが寝ているとか、もう戸を締めたからという言い訳をする人など誰もいません。イエスはそれを知っておられたし、その話を聞いていた人も全員、それを知っていました。そして、この先を読めば、それはたとえ話の重要点の一つなのだとわかります。

近所の人が「友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言ったのは必ずしも、家に何も食べ物がないという意味ではありません。たとえ話の最後で、イエスは、寝ていた男の人は起き上がって、近所の人に「必要なもの」を出してくれるだろうと言っています。ですから、パン以外にもさらに何か必要なものを与えたのかもしれません。

寝ていた男が、子どもを起こしはしないかと気にしていたことについては、当時、農家には普通一部屋しかなく、家族全員が床に敷いた寝床の上に寝ていました。寝床から起き上がり、パンを取り出して戸のかんぬきを開ければ、おそらく家族全員が目を覚ますでしょう。しかし、近所の人の所に来た客をきちんともてなすために、食卓にまともな食べ物を出すという正当な要請があれば、たとえそのような不便さにも目をつぶって当然だったのです。

[訳注:以下に、聖書の訳語についての考察が書かれていますが、それはギリシャ語や、英語の聖書での訳語についてであり、必ずしも日本語の聖書の訳に正確に当てはまるとは限りません。]

たとえ話は「あなたがたのうち誰かに」という質問で始まり、それに対し、聞き手は「そんな人は誰もいません」と考えます。イエスはそれから、その答えを口にされます。寝ている男は、たとえその近所の人が友だちだという理由で、起き上がって彼にパンをあげなかったとしても、その人がしきりに求めるなら、そうするだろうと言うのです。

聖書学者たちは「アナイデイア」というギリシャ語の意味について意見を異にしています。これは英語欽定訳では「importunity」(しつこく、しきりに)と訳され、その他の多くの訳書では「persistence」(粘り強く)と訳されています。聖書でこの言葉が使われているのはこの箇所だけで、たとえ話にこの言葉がこのように使われていることは、物語を解釈する上で多少の困難を招いています。「アナイデイア」という言葉の意味は、恥知らずとか、厚かましいという意味で、正確に言えばどちらも粘り強くとかしきりにという意味はありません。

恥知らずや厚かましいという言葉の意味を調べてみると、人の気を害するほど大胆な行為とか、他人の存在や意見を無視した自信、恥じないこと、ずうずうしさ、といった言葉が出てきます。その点を踏まえて考えると、パンを借りなければならない近所の人を粘り強いと見るよりも、良い理由があるなら人に面倒をかける危険を冒すこともいとわない人、近所の人を起こすのは無礼であるように思えるけれども、きっと頼みを聞いてもらえると確信していた人として見るべきでしょう。その男は、恥ずかしいと思わずに大胆に頼んだのです。

弟子たちの「祈ることを教えて下さい」という当初の願いと照らしてみると、イエスの物語は私たちに、必要なものを求める時には大胆になり、恥ずかしがらずに神の御前に行くよう励ましています。

ユダヤ教のラビが教える時には、「小から大へ」という教授法を用いていました。つまり、結論がより小さなケースに適用されるなら、それはより重大なケースにも適用されるということです。イエスはこのたとえ話を伝える時にもこの方法を使われました。もし寝ている男が起きて困っている近所の人の頼みごとを聞いたとしたら、私たちが神に願い事を携える時に、神はどれだけ私たちの祈りに答えられるだろうか、ということです。

この日常生活を描く物語は、神が祈りに答えられることを教えています。神は寝ている男がしたように起き上がって、私たちが必要とするものを惜しみなく与えてくださいます。イエスはちょうど主の祈りを弟子たちに教えたところで、それには「私たちに日ごとのパン[日本語訳では食物]をお与えください」という言葉が含まれていました。イエスはパンを必要とする人についてのたとえ話で、それをフォローされたのです。ここでの要点は、私たちは願い事を大胆に神に知らせるべきであり、神が答えてくださるという確信を持つべきだということです。

イエスは次の2節でさらにそれを強調しておられます。「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(ルカ11:9–10)

この2節の後に、父の良き贈り物についてのたとえが続き、そこにはさらに祈りについて書かれています。このたとえ話には、真夜中の友に似た筋書きが提示されています。それはまず、こんな質問から始まっています。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。」(ルカ11:11-12)

そこで暗に伝えられているのは、そのような父はどこにもいないという答えです。魚の代わりにへびを与えたり、卵の代わりにさそりを与えたりする父親、あるいはマタイの福音書にあるように、パンの代わりに石を与える父親はどこにもいません。それは聞き手にとって明白です。

イエスはその後、このようにたとえ話を締めくくります。「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(ルカ11:13) ここでもまた、イエスは「小から大へ」の論法を用いておられます。父なる神の完璧さに比べれば悪い者である人間の父が、子どもに良い贈り物をするのであれば、なおさら神は求めてくる者に聖霊という素晴らしい贈り物をくださらないことがあるでしょうか。

親に食べ物を求める子どもが有害な物を与えられることがないとしたら、私たちはなおのこと、人間のすべての親よりもはるかに偉大な父なる神が、私たちの祈りに応えて良きものをくださると信頼できるのではないでしょうか。その良きものには、聖霊を通して私たちの内にいます神の存在も含まれます。

結論として、ルカ第11章は、祈りについての重要な原則の多くに光明を投じています。私たちは祈りによって堂々と神に御前に行き、求めるなら受け取ると確信して、必要なものを大胆に求めるべきであるという原則、そして、扉を叩けば開けられるという原則です。イエスはまた、私たちを愛し世話している人たち、つまり親が、毎日の糧である食料など必要不可欠のものを与えてくれると期待できるとしたら、天の父である神も同じことを、そしてそれよりもはるかに多くをして下さると当てにすることができると述べておられます。私たちは神が私たちを世話して下さると知って、祈りによって大胆に神の御前に行くことができるのです。

初版は2013年9月 2024年6月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス

Copyright © 2025 The Family International