私たちの心の一部に

1月 9, 2025

A Part of Our Hearts
July 10, 2024

スティーブ・ハーツ

何かについて豊富な知識があることと、それを自分の欠くことのできない一部にすることによって、信じていることが心と行動の一部になるようにすることとは、別のことです。

若かった頃、私は聖句をあっと言う間に暗記できることを誇っていました。討論になれば、自分の意見を通そうとして、その知識を活用していたものです。次から次へと聖句を引用し、自分がいかに「霊的」かを証明しようとしたのです。それで人々を感服させることはできましたが、神は私の心を見ておられました。

大人になるにつれ、人生の困難は増しました。そして、私は御言葉に力を見出す代わりに、困難について不平を言い、その重みに崩れ落ちるようになったのです。主の言葉はただ学習し暗記するためだけのものではなく、それを実践して適用するためのものであることを主が私にわからせるには、相当な時間がかかりました。御言葉を、ただ耳と頭に詰めるだけでなく、自分自身に深く浸透させ、心の一部にしなくてはならないのです。

たとえば、私はヤコブ第1章2–3節を完璧に暗唱することができました。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」 けれども、私は問題や困難のただ中にあって感謝をすることなく、その真逆の態度を示していたのです。この聖句を実践するよう、神は私に態度を劇的に改めるよう求めておられましたが、それは非常に難しいことでした。しかし、神の助けによって、ネガティブで文句ばかり言っていた態度から、感謝と賛美に満ちた態度に変わり始めたのです。そして、それが、すべてを変えるきっかけになったと、私は証言できます。

主は御言葉を実践し適用することを私に痛感させるため、以下の出来事を使われました。

目の不自由な音楽家として、私は楽器の演奏を耳から学んだので、楽譜で書かれた音楽については何も知りません。点字の楽譜さえも知りません。また音楽用語についてもほとんど知りません。このことについて一度兄に嘆いていると、兄はこう言ったのです。「でもお前は楽譜がないと演奏できない人よりずっと有利じゃないか。楽譜が読めるかどうかと関係なく、音楽自体が頭と心の中に入っているのだから。」

主は、私が音楽の知識を実践し適用するのと同じ実用的な方法で、御言葉を実践し適用しなくてはならないと示してくださいました。どんな主題であれ、何時間も読み、学習し、学ぶことは可能ですが、学んだことを活用せず、適用せず、実践しないなら、すべてがムダになると気づいたのです。

私には家族ぐるみで付き合いのある心理学者がいます。長年、彼女は、イエスや救いに関して私たちが何かを話したり勧めたりしても、それを拒んできました。けれども、不幸な出来事が起こったのです。彼女の妹夫婦が殺されてしまい、自分を強くしてくれると彼女が信じていた知識は粉々に崩れてしまいました。その時、彼女はイエスに助けを求め、そして、イエスを心に受け入れました。

ある日、彼女は私たちにこう言いました。「私は心理学者になるために何年も勉強してきたし、さまざまな主題について詳しく話すことはできるけれど、その知識は今まったく役に立っていないわ。役に立っているのは、イエスが私に対して持っておられる大きな愛と、イエスの言葉とをより良く理解することから来る慰めよ!」

もう一つ別の例を思い出しました。人間の感情や反応を専門とし、学生たちからとても慕われていた若い心理学教授の話です。

ある日の午後、彼は5年間会っていなかった母が病気だという手紙を、兄から受け取りました。もう長くはないので、会いたがっているというのです。彼は翌週末の母の日に会いに行くことにしました。

訪問の数日前、家主から、何をお土産に持っていくのか尋ねられましたが、何も思い浮かばなかったので、家主に選んでもらえないかと頼みました。すると次の日、戸口に美しいバラの花束が届けられたのです。

教授は、それを持っていかない口実を言い始めました。「母は感傷的なことにあまり関心がありません。それに電車で花束を持っていくなんて大変です。周りの人はどう思うでしょう?」 しかし家主はそんな言葉に動じず、バラを持っていくように強いたのです。

電車に乗っている間、教授は花束を抱えている姿を、誰か知っている人に見られるのではないかと、気が気ではありませんでした。そして、見覚えのある人が彼の方に向かってくるたびに、新聞で花束を隠しました。

さて、教授がバラを渡そうとした時、母親はそれを断ろうとし、「プレゼントを買うぐらいなら、自分の将来のために貯金しなさい」と言いました。そういった反応を示すだろうと予想していたので、彼はやっぱり考えていた通りだと思いました。

次の日、教授が散歩に出かけると、昔から彼の家族を知っている人に出合いました。その人は楽しそうにこう話してくれたのです。「ちょうどあなたのお母さんの家に寄ってきたところよ。あなたが持ってきたバラのことばかり話していたわ。」 教授はその言葉を信じられませんでしたが、家に帰ると、兄夫婦も同じことを言ってきたので、それが本当だとわかりました。

その翌日が母の日だったのですが、母親は朝食を食べに降りてきませんでした。教授が様子を見に行くと、母親は彼が持ってきたバラをしっかりと抱きしめたまま、眠るように安らかに息を引き取っていたのです。

その時、教授は気づきました。感傷的なことがあまり好みではなかったのは自分の方で、ひょっとしたら母親は彼のためにわざとそのように振る舞っていたのではないかと。教授は、自分は人間の感情についてよく知り、理解していると思っていましたが、このほろ苦い経験から、ただの知識と、自分が教えていることを心を込めて実践することには、大きな違いがあることを知ったのです。

私は、神の言葉を読む前に、次のように祈ることを習慣としています。「主よ、あなたの御言葉がただの知識に終わるのではなく、私の心と生活の一部となるようにしてください。」

若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更

Copyright © 2025 The Family International