忠実な僕と悪い僕

12月 17, 2024

The Faithful and Unfaithful Servant
July 4, 2024

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 7:50
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忠実な僕(しもべ)と悪い僕のたとえ話は、マタイとルカの福音書に記されており、内容はわずかに違いがあるだけです。このたとえ話の背景を説明しましょう。逮捕されて十字架にかけられる少し前に、イエスは弟子たちに話をしておられました。それはオリーブ山で彼らだけの時で、弟子たちがイエスにこう質問したのです。「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか。」(マタイ24:3) するとイエスは将来の出来事について語り始められ、その中にイエスの再臨(終わりの日にこの世に帰ってこられること)もありました。「そのとき、… 力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイ24:30)

イエスは、再臨(パルーシアと呼ばれています)に関連してたとえ話をし、再臨はいつ起こるのかは誰も知らないと言われました。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24:36) イエスはまた信者たちに、その日のために用意しておくよう忠告されました。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)

それからイエスは、再臨がいつ来ても用意ができているような生き方をすることの大切さを強調するたとえ話をされました。2つの相反する態度、つまり信者たちが下しうる2つの選択を対比しておられます。イエスは次の問いかけをすることで、このたとえ話を始められました。

「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(マタイ24:45–47)

主人が留守の間、その家のことを任された僕の話です。彼には、家の使用人たちの上に立つ権威と、家のことを管理する責任とが与えられました。この家には多くの使用人たちがいたようで、この責任は非常に大きなものです。

この僕は、主人がいつ戻るかということが、自分の働きぶりに影響を与えることではないので、いつになるかを気に留めていません。ただ自分の務めを忠実に果たしています。そのような人は、主人が戻ってきた時に、大いに称賛されます。称賛にとどまらず、主人の全財産に対する責任を任されて、管理者に昇進します。

僕が自分の務めを立派に果たしたという、一つのありうるシナリオについて聞かされた後に、もし僕が異なる選択をしたならどうなっていたのか、そしてそのような決断の結果はどうなるのかという反対のシナリオが説明されています。

「もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイ24:48–51)

この箇所を読むと、僕が心の中でいろいろ何かを考えていることが分かります。他のところへ出かけた主人が、何らかの理由で当初予定していた時に帰らなかったので、この僕は罰を受けずに何でもやりおおせると感じます。彼の頭の中では、家の監督を任されるということは、他の人たちに釈明する義務はなく、何をしても罰せられることはないという意味でした。この僕は、主人が帰ってくることはなく、自分の選択について釈明を求められる筋合いもないかのように振る舞いました。この僕は不当な行為をするようになり、一時的に与えられた権威でのぼせ上がって、非情にも他の僕たちを殴り出し、酒飲みと一緒に食べたり飲んだりしたのです。

そして、主人が帰ってきたわけですが、何の前触れもなかったので、僕は全く用意できていませんでした。どういうわけかこの僕は、主人の留守が当初の見込みより長かったからといって、二度と帰ってこないという意味ではないことを見落としていました。そして、主人は帰ってきて、僕はその行動や誤った管理、無慈悲さ、そして他の人への悪意のゆえに、裁かれて罰を与えられました。

「切り裂く」というのは、いかにも厳しい処罰に聞こえます。[訳注:和訳聖書の多くが「厳罰に処す」などと訳している箇所です。ほとんどの英訳聖書や幾つかの和訳聖書では、ギリシャ語の原文通りに「切り裂く」「引き裂く」「八つ裂きにする」などと訳しています。] これは「人々から切り離される」、つまり他の信者との交わりから絶たれるという意味だと考える解説者たちがいます。また、これはメタファーとして解釈できると考える人もいれば、単に厳罰に処されるという意味だと考える人もいます。多くの聖書解説者が言っているように、この言葉はメタファーとしてではなく、文字通りの残酷な罰であると捉えるべきであり、聞いている人たちにショックを与えて、正しい決断を促すために使われたようです。

マタイの福音書の「偽善者たち」という言葉は、ルカの福音書では「不信者たち」と表現されています。[訳注:主な和訳聖書では、「不信者」ではなく「不忠実な者」と訳されています。](ルカ12:46) この文脈において、この言葉はおそらく神に反対した決断を下す人たち全般を指す言葉として捉えられるべきでしょう。「泣き叫んだり、歯がみをしたり」というのは、深い悲しみや感情の動きを表しています。この言い回しは新約聖書で7回使われており、いずれの場合も、神を拒絶したために、終わりの時になって神の祝福からもれる人たちを指しています。

このたとえ話は、2つの対照的な信仰の実践の仕方を示しています。そのひとつは、最初の僕のように、日々忠実に、また着実に仕事をこなすことです。頼まれていたことをずっと行ってきたので、主人がいつ帰ってくるかは、彼にとって関係ありません。いつ主人が帰ってきても、この人は用意ができています。

もうひとつの実践の仕方は、悪い僕と同じ態度を取ることです。彼は主人が帰ってくるという事実にほとんど気を留めず、むしろ、万が一帰ってきたとしても、それはかなり先の話なので、それを考慮する理由などないかのように振る舞いました。問題は、ついに主人が帰ってきて、裁きと罰が与えられたことです。

このたとえ話は、正しい選択をした人とそうでない人の、2人の別々の僕についてであるように見えますが、実際には2つのうちのどちらかを選択する、1人の僕についてです。それぞれの信者が選択を迫られています。私たちは主に対して忠実であるでしょうか。主の教えに沿って生きているでしょうか。

主がいつ帰られるとしても、あるいは自分の人生がいつ終わるとしても、用意ができているでしょうか。それとも、私たちは、あの僕のような態度でいるのでしょうか。彼は、釈明の責任などないかのように生活してきましたが、実はその責任があった、私たちは釈明しなくてはいけないと分かった時には手遅れでした。聖書には、こうあります。「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」(ローマ14:12)

正しい選択は、明らかに最初のものです。つまり、私たちの人生をイエスの教えに基づいたものとし、神との健全な関係を保ち、神や他の人々を愛し、神が召されたことに忠実であるという選択です。そのように生きることによって、私たちは現在だけではなく、永遠に渡っても祝福されるのです。

初版は2018年2月 2024年7月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク

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