11月 29, 2024
キリストのようになるというのは、長くゆっくりとした成長の過程です。霊的な成熟とは、即座にそうなるものでも、自ずとそうなるものでもありません。人生の残りの時間をかけて、徐々に進行し、発展していくものです。この過程を指して、パウロはこう言いました。「この働きは … 続けられなければならない。… 成熟し、キリストのようになるためである」(エペソ 4:13)。
あなたは制作過程にある作品です。イエスの性質を身につけるという霊的な変容には、これから先、一生がかかるでしょう。さらには、この地上で完成することさえないでしょう。それが完成するのは、あなたが天国に行くときか、イエスが再臨されるときなのです。
その時点で、あなたの人格に残っている未完成の作業がすべて完了します。聖書は、私たちがイエスを完全に見ることができるようになったとき、完全に彼のようになると言っています。「これから先のことは想像もつきませんが、ただこの一事だけはわかっています。つまり、キリストが再び来られる時、私たちはキリストに似た者となるということです。その時、キリストのありのままの姿を見るからです。」(1 ヨハネ 3:2)。
クリスチャン人生における多くの混乱は、神は他の何よりもあなたの人格を築くことにはるかに関心を持っておられるという単純な真理を無視することから生じます。私たちは、「どの職業を選ぶべきか」といった具体的な問題について神が沈黙しておられるように思えると、心配になります。実は、あなたの人生にとって神の御心となりうる職業はたくさんあるのです。神が最も気にかけておられるのは、あなたが何をするにしても、それをキリストのように行うことです(1 コリント 10:31; 1 コリント 16:14; コロサイ 3:17, 23)。
神は、あなたが何をするかよりも、あなたがどんな人であるかにはるかに関心を持っておられます。[英語で]人間はヒューマンビーイングであって、ヒューマンドゥーイングではないのです。[訳注:人間としての価値や意義は、単に行動や成果によって測られるのではなく、存在そのものにある、という意味。] 神は、あなたのキャリアよりも、あなたの人格のほうにはるかに関心を寄せておられます。なぜなら、あなたが永遠というときに持って行けるのは、人格であってキャリアではないからです。
聖書はこう警告しています。「自分の文化にあまりにも順応して、何も考えずにそれに溶け込んでしまわないようにしなさい。そうではなく、神に注意を向けなさい。そうすれば、あなたは内側から変えられる。… あなたの周りの文化が、いつもあなたをその未熟さのレベルまで引きずり下ろすのとは違って、神はあなたの中から最良のものを引き出し、あなたの中によく形成された成熟さを育ててくださるのです」(ローマ 12:2 英語MSG訳)。
あなたは、イエスのようになることに専念するためには、カウンターカルチャー的な決断をしなければなりません。そうでなければ、仲間、親、同僚、文化といった他の力が、あなたを自分たちの姿に形作ろうとするでしょう。悲しいことに、人気のあるクリスチャン書籍の多くにざっと目を通してみると、大勢の信者が神の偉大な目的のために生きることを放棄し、代わりに個人的な充足と感情的な安定があれば良いと落ち着いてしまっていることがわかります。それはナルシシズムであり、弟子の生き方ではありません。
イエスが十字架で死なれたのは、私たちが快適で社会に順応した生活を送れるようにするためではありません。イエスの目的は、はるかに深いものです。それは、私たちを天国に連れて行く前に、私たちをご自身に似た者にしてくださることなのです。これは私たちの最大の特権であり、差し迫った責任であり、究極の運命です。—リック・ウォレン [1]
ダラス・ウィラードは、かつて教会の礼拝はアルコホーリクス・アノニマス(アルコール依存症者の自助グループ)の集会のように始めるべきだとよく言っていました。「こんにちは、私はキャメロン・マカリスターで、回復中の罪人です」。使徒パウロの言葉を読んでみましょう。今回はピリピ人の手紙です。次の言葉について考えてください。
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう」(ピリピ 3:12–15)。…
クリスチャンの人生における変容を考えるとき、私たちは現在進行形で考えなければなりません。すべてのクリスチャンは、パウロと同じように、救いにあずかって、その完成に向かう過程にあるのです(1 コリント 1:18)。しかも、クリスチャンによって、その歩みはさまざまな段階にあり、霊的成熟度もさまざまです。確かに、この成熟の状態は現実の状態とは違うことがあります。霊的には幼児の老人もいれば、霊的には大人の若者もいます。巨人でも霊的には小エビかもしれないし、小エビでも霊的には巨人かもしれません。これもまた、キリストが「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という言葉で言わんとされていることです。…
貧困や無知も非常に深刻な問題ではあるものの、聖書によれば、人類を苦しめている問題は、それよりも深刻です。悲しいことに、立派な教育があっても、銀行口座に多額な残高がある場合と同様、その人が道徳的な振る舞いをすることが保証されるわけではありません。どんなに豊かで恵まれた環境にあっても、私たちは自分自身や他人を傷つけてしまいます。聖書の言葉を使えば、私たちは堕落しています。私たちは罪人なのです。
イエスは救出作戦のために地上に来られました。人類の歴史全体で、イエスの人生は唯一の完全な人生であり、輝ける模範であり、私たち全員にとっての希望の光です。イエスだけが、私たちの現状に対処し、私たちにどうなってほしいと願っておられるかを指し示すことができるのです。真のクリスチャンとは、イエスを師とし、多くの擦り傷や打ち傷を負い、よろめきながらも、イエスのようになるための道を前進する者たちです。彼らは完璧ではありませんが、彼らの主人は完璧であり、主こそが、たとえ彼らが足を引きずることになっても、頑として前進し続ける理由なのです。—キャメロン・マカリスター [2]
ある意味、神から見れば、私たちはみな未完成です。神は多くの「プロジェクト」を良い始まりで始められるし、それ自体は完璧でさえありますが、完成には至っていません。主は、ご自分の被造物に対する作業を決して止めません。型に入れ、形を整え、ノミで削り、磨くという作業はすべて、私たちが進歩し、神に近づけるようにするためなのです。
私たちは、天の父との関係を意識的に成長させようと努めることで、人生における神のみわざに寄り頼むことができます。それは、意思決定を神に関わっていただき、神の御言葉にある霊的原則を決断に適用することによって、することができます(ヤコブ 1:5)。人生で経験することを通して学び、困難な時には、信仰が試され、神が人生の問題に対する究極的な解決策であることを知るときに、霊的に成長するということを思い起こすことができます。「あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」(ヤコブ 1:2–3)。
私たちは弱い面を見極め、それに取り組むことができます。人は誰にでも改善の余地があるのです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており …」(ローマ 3:23)。一般的な意味で、私たちが不完全であることを受け入れるのは、それほど難しいことではありません。自分の過ちや弱点について具体的に考える時に、難しくなるのです。たとえ自分自身と神に対してだけであっても、自分の至らなさを認めるのは謙遜にさせられます。しかし、そうすることで霊的な進歩を遂げることができるのです。「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」(ヤコブ 4:10)。
私たちは他の人々に自分自身を与えることに専念できます。自分自身を忘れ、他の人々の必要を満たし、福音をもたらすことに集中するとき、私たちは彼らに神の愛を伝える水路となります。そして、私たちが注ぐ時、神の御霊が私たちの内に、私たちを通して働いてくださるのです。「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(2 コリント 9:6)。—アレックス・ピーターソン
福音の良き知らせを初めて受けたとき、私たちは神の御手による作品となり、良い行いをするように、キリストにあって新しく造られました(エペソ 2:10)。パウロは第2コリント5章17節で、すでに私たちに与えられている新しさを強調してこう書いています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。しかし、パウロは同じ手紙の中で、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(2 コリント 4:16)とも書いています。
つまり、どういうことなのでしょう。私たちはすでに新しくされているのでしょうか。それとも、新しくされる過程にあるのでしょうか。聖書の答えは 「両方」です。この答えは、キリストにある私たちの人生の終末論的次元、つまり私たちが生きている「すでにあり、まだない」という現実に基づいています。クリスチャンになったとき、私たちは御言葉と御霊を通して、神の力によってすでに新しくされました。しかし、その新しさはまだ完全ではないのです。
キリストにある私たちの人生は、三位一体の神や神の民との交わりの中で生きる中で、御言葉と御霊を通して更新され続ける長いプロセスなのです。エペソ4章23節 [「心の深みまで新たにされて」]では、「新しくされる」という現在形がこの事実を思い起こさせてくれます。今日、自分の人生を振り返ってみると、神がすでにあなたを新しくしてくださったことがわかるはずです。そして、あなたは神の制作中の作品なので、まだ改新を必要としている面にもきっと気づくと思います。…
祈り: 恵み深い神よ、あなたが私の内面を新しくするというみわざを始められたことを感謝します。あまりにもさまざまな方法で行われているので、私はそのうちの半分も数え上げることができないでしょう。それでも、自分の目に見えるものについては、どれほど感謝していることでしょう。感謝します! それでも主よ、私はまだ未完成だとわかっています。そう、あなたはいつかこの仕事を完成させてくださいます。しかし、今はまだ、私はあなたによって形成され、再形成されているところなのです。ありがとうございます。そして、私の全生涯をあなたに開いていく中で、これが続いていきますように。アーメン。—マーク・ロバーツ [3]
2024年11月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:ジョン・リッスン
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