11月 17, 2024
ルカによる福音書14章は、イエスが安息日にパリサイ人(ファリサイ派)のある指導者の家へ食事に招かれた話で始まります。イエスは到着すると(家に入る前に水腫を患っている男を癒やしてから)、たとえを語られました。
客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。」(ルカ14:7–9)
イエスの時代の地中海世界には、食事の際に誰がどこに座るかについて、重要な決まり事がありました。特に婚宴のように大きな行事の際はそうです。そのような時には、客の地位や名声により、食卓の上座(上席)から見てどの位置に座るかが決まります。最高の栄誉を受ける人が上座に座り、他の主だった人たちはその近くに座ります。当時にあっては、地位や社会階級、そして正しい礼儀作法が極めて重要であり、客を間違った席に座らせることによってその人の名誉を汚すことは、極めて無礼で侮辱的なことでした。
晩餐に招かれた人たちの何人かが上位の座席に着こうとしていることにイエスは気づかれました。彼らはユダヤ教徒だったので、以下の箴言はよく知っていたことでしょう。「王の前で自ら高ぶってはならない、偉い人の場に立ってはならない。尊い人の前で下にさげられるよりは、『ここに上がれ』といわれるほうがましだ。」(箴言25:6–7)
このたとえを話すことによって、イエスは同様の原則に光を当てられました。先を争って上座に着こうとする人は、後になってから、自分よりも身分が高く、その席に着くにふさわしい人が到着するかもしれないというリスクを冒しています。主催者は、より名誉ある客を下位の座席に着かせることはしません。それは礼儀作法に甚だしく反することです。
そのような場合、主催者に唯一できることは、上座に座る資格がないのにそうしてしまった人に話をして、下位の座席に移動するよう促すことです。その頃までには他の客もすでに席に着いているので、空いているのは最末座となることでしょう。厚かましくも勝手に上座に着いていた人は、立ち上がって、皆の見ている前で恥をかきながら、最末座まで歩かざるを得なくなります。
イエスは話を聞いている人たちに、それとは反対のことをすべきであると言われました。
「むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこす[誉れを得る]ことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(ルカ14:10–11)
イエスは、謙虚になって末座に着いた方がよく、そうすれば主催者が上座の方のもっといい席に座らせてくれるかもしれないとおっしゃいました。それによって、自分を偉そうに見せて恥をかく代わりに、他の客の前で誉れを得るのです。
イエスは、謙虚になることが最善の道であることを示しており、それは福音書の他の箇所でも、次のように教えておられるとおりです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため … であるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:26–28) また、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:4 新共同訳)
謙虚さに関するイエスの教えの反映は、次のように、新約聖書全体を通して見られます。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。 … 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」(ヤコブ4:6,10) 使徒たちは、信者に次のように促しています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ2:3) 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(1ペテロ5:5)
厚かましくも最上座を選んだために、人前で恥をかく羽目になった例の客について説明した後、イエスはご自身を食事に招いた人に、次のように言われました。
「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」(ルカ14:12–14)
(当時はイスラエルも含まれていた)ローマ社会においては社会的信望が著しく重要であったため、晩餐の席に、将来向こうから自分を招いて返礼してくることを期待できるような「適切な」客を招待するのが通例でした。それは現代でも珍しいことではありません。イエスは、晩餐の主催者であるパリサイ人や招待客が、自分の利益のための返礼の連鎖に捕らわれていることに気づかれたことでしょう。
そこでイエスは、より神の御心にかなった方法を示されました。お返しすることが期待される友人や兄弟、親族、金持ちを招待するのではなく、むしろ返礼のできない人たちこそ招待されるべきであると教えられたのです。そして、返礼を期待されるその4種類の人たちと対照的に、困窮している4種類の人たちを挙げられました。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、です。
このようにイエスは、何らかの形でお返しされることを期待せずして、人をもてなすべきことを示されました。その方が、お返しで成り立つ「返礼制度」よりもいい方法なのだと。心から惜しみなく与えたいということだけを動機とするなら、神はそれを喜ばれます。イエスは、そのような与え方をする人は幸いになるし、次の世において報われると言われました。(報いを受け取ることを動機としているわけではありませんが。) 親切と犠牲の行いは、他の人へのイエスの愛と憐れみを反映しており、また、イエスへの私たちの愛が結ぶ実なのです。
初版は2018年7月 2024年11月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク
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