11月 11, 2024
今日私たちが生きている、敵対意識、争い、偏見、暴力がうずまく世界では、互いに仲良く過ごすことなんて、できるはずがないと思うでしょうか。
もし、「あらゆる国、人種、民族、信条の人々が全員、その違いにかかわらず、他のすべての人を尊重しなければならない」という法令が制定されたとしたら、どうなるでしょうか。残念ながら、仮にそのような命令を出す権限を持っている人がいたとしても、決してうまくはいかないでしょう。簡単に言えば、正義を法律で強制することはできないからです。
では、何世紀にもわたって人類に根付いてきた偏見や恐怖心、不信感は、どうすれば克服できるのでしょうか。その答は、一つの簡単な言葉に要約できます。愛です。
聖書には、「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」とあります。[1] もし誰かを憎んでいるなら、その人と接しているうちに、意見の相違や対立が生じることでしょう。しかし、神の愛によってその人を愛しているなら、たとえ相手から不当に扱われたとしても、赦すことが可能です。
それはただの崇高な願望にすぎないと思う人もいるでしょう。そもそも、現実的に言って、個人あるいは集団全体に対して抱いている恨みや憎しみ、恐怖心、その他の根深い否定的な態度を解き放つことができる人が、どれだけいるでしょうか。たいていの人は、そのような決意をすることがなく、そうするための感情的な余裕もありません。
幸い、私たち人間の力には限界があるものの、自分や相手の過去や背景がどんなものであっても、他の人々を愛するのは可能です。そして、そのような愛は、愛の究極の源である神ご自身から来るものです。聖書には、「神は愛である」とあります。[2] 神は全知全能の宇宙の創造者であり、私たち全員を造られた方です。
神は、ご自身がどのような方であるかを示すために、御子をイエス・キリストという人間の姿で地上に送ることを通して、私たちのレベルにまで降りてこられました。イエスの宣教は、すべて愛と真理の宣教でした。イエスは人間の苦しみを経験し、人々への思いやりをもって、相手の霊的・肉体的な必要に応えました。私たちと同じ人間になられたのです。
イエスは、神の戒め全体は、「愛しなさい」という一つの大いなる戒めにかかっていると教えられました。こう言われたのです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」 そして、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」[3]
ある宗教の専門家は、その教えを耳にし、イエスを試そうとして、みんなの面前で、「では、私の隣り人とは誰か」とたずねました。イエスはその答えとして、善きサマリア人のたとえを話すことによって、隣り人とは、人種や信条、民族、国籍に関係なく、誰でも助けを必要としている人のことであると明確に示されました。[4] 私たちは、他者への愛を与えてくださるよう神にお願いすることによって、隣り人を愛し、世界に平和をもたらすために自分の役割を果たすことを学ぶことができます。
聖書には、イエスについて、「キリストはわたしたちの平和であって、二つのもの[異なる民族]を一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き …」と書かれています。[5] 神の愛こそが、私たちの間に真の平和と相互尊重をもたらすのです。
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」[6] そして、私たちの人生を、人類に対する神の見方に沿ったものとするなら、私たちも他の人々の相違点にとらわれることなく、その人の内にある神の形に造られたかけがえのない存在としての価値と尊厳を見ることができます。
たとえ長年の間、恐怖心や偏見や憎しみが染みついていたとしても、神の素晴らしい愛はそのすべてを洗い流すことができます。神が自分を愛し、ゆるしてくださることをひとたび知ったなら、他の人を愛し、ゆるすこともずっと容易になるでしょう。そして、「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合」うことができるようになります。[7]
イエスに心を開くなら、イエスはあなたを他の人に対する憎しみと悪意の束縛から解放してくださいます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」[8]
私たち全員が人種や民族の違いなど気にすることなく、自分とは異なる民族的背景を持つ相手に目を向ける時、そこに神の愛以外何一つ見なかったなら、何という素晴らしい世界となることでしょう。それは、イエスにあって、可能です。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」[9] —ファミリー・インターナショナル
神は、大いなる愛と恵みをもって、そのすべての被造物に手を差し伸べておられます。ご自分が造られた一部の人をより多く愛し、他の人をあまり愛さない、などということをされません。特定の人種や民族、文化に属する人に対して、最も恵まれているというレッテルを貼り、それ以外の人はそれほどでもないとすることもありません。
私たちクリスチャンは、相手の背景や社会的地位、その他のいかなる特質に関係なく、すべての人を愛するという召しを受けています。私たちは、イエスが全人類のために死に、命を捧げてくださったと信じているのです。イエスは、私たち一人ひとりのために死ぬことによって、最大限の愛を示してくださいました。
実のところ、神はすべての人を等しく愛しており、私たち一人ひとりのために、御子をお与えになりました。聖書には、こうあります。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」[10] それよりも大きな愛などあるでしょうか。
神は、ご自身との関係を結んだ神の子どもたちに、祝福と報いを与えられます。しかし、それは、造られたすべての者に対して神が抱いておられる愛や、彼らが皆悔い改めに至り、神と神の天の国を永遠に楽しんでほしいという大きな切望とは、区別されるべきものです。イエスは、すべて造られた者のために死んでくださり、すべての人、その一人ひとりが、悔い改めと救いに至ることを願っておられます。それが誰であって、どんな罪を犯していようと、主は一人も滅びることがないよう望んでおられるのです。[11]
イエスは、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われました。[12] 御言葉には、こうあります。「キリストも、… 御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」[13] —マリア・フォンテーン
2021年3月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク
1 箴言 10:12.
2 1ヨハネ 4:8.
3 マタイ 22:37–40.
4 ルカ 10:25–37.
5 エペソ 2:14.
6 サムエル上 16:7.
7 エペソ 4:32.
8 2コリント 5:17.
9 ガラテヤ 3:28.
10 ヨハネ 15:13.
11 2ペテロ 3:9.
12 ヨハネ 20:21.
13 1ペテロ 2:21.
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