神と共に歩む

10月 24, 2024

Walking with God
October 16, 2024

ガブリエル・ガルシア・V

最近、家族を訪ねた時、年長の孫と近所を散歩し、孫の心の奥深くにある願望や思いを聞く絶好の機会を得ました。おかげで、私は孫のことをもっとよく知り、一緒に仲良く過ごすかけがえのないひとときを楽しむことができたのです。神と共に歩む時にも、それと同じようなことが起こります。神が私たちに対して抱いておられる望みや御心を見いだし、神の臨在と親密さと保証を経験し、その結果、主をよりよく知るようになるのです。

私たちが主と共に歩む時、主は、エマオに行く途上の二人の弟子にされたように、ご自身を私たちに現されることでしょう。そして、私たちが聖書を理解し、主の奥義を発見できるように、私たちの目を開いてくださいます。(ルカ24:13–35

「遠くから」(マタイ26:58)ではなく、近くで、神と心を通わせて会話したり、共に計画を立てたり、あるいは、単に一緒にいることを楽しんだりしながら、神と並んで歩むことの様々な側面を探ってみましょう。神と共に歩む上での重要な部分とは、日々の生活や行動において、神との対話を保つことです。

聖書で「歩む」と言う時、それはしばしば生き方のことを指しています。イエスに倣った人生を生き、イエスの足跡をたどる時(1ペテロ2:21)、私たちは単なる信者ではなく弟子となります。そして、それには、ある程度の犠牲が必要とされます。(ルカ9:23; マタイ10:38) こんな言葉を読んだのを思い出しました。「弟子はイエスと共に歩み、イエスに従い、イエスと共に生きる。これが、名ばかりのクリスチャンと弟子との違いである。」 私たちは皆、「ついてきなさい」との召しを受けていますが、皆が救い主の近くを歩むことを選ぶわけではありません。私たち自身は、主に命を捧げようという強い気持ちに駆られています。そして、そうすることによって、私たちは自然と、他の人たちにも呼びかけ、彼らも主についていくようにと導くことになります。(マタイ4:19

神と共に歩むということは、互いに同意の上で、誰かと同じ方向に向かって歩むことを選ぶのと同じことです。(アモス3:3) その結果、私たちは誠実に歩むし(箴言10:9)、言うまでもなく、へりくだった心でそうしなければなりません。(ミカ6:8) 素晴らしいことに、イエスと共に歩む時、私たちは道であり、真理であり、命である場所を歩むことになります。(ヨハネ14:6

神との親密な交わりを保ちたいのであれば、日々、神と共に歩むようにしなければなりません。その点を、ジムでの継続したワークアウトになぞらえた話を聞いたことがあります。ワークアウトを何日もしないでいると、衰えに気づきます。そのように、私たちがたるんでしまい、目標を見失うことのないように、イエスと歩調を合わせて進むことがいかに重要であるかがわかります。

そんなふうに「歩む」なら、疲れてしまうのではないかと思うかもしれません。しかし、逆説的なことに、羊飼いが緑の牧場や憩いの水のほとりに導くように、神と共に歩むことは、私たちを休息と再生に導いてくれるのです。(詩篇23篇) 私たちが弱々しく疲れ果てていると感じる時、神は心を動かされ、私たちは必ず神のうちに休みを見いだすようになることでしょう。(ヘブル4:9–10) 主のくびきは負いやすく、主の荷は軽いのです。主にあって、私たちは魂に休みが与えられます。(マタイ11:28–30

文明の夜明け以来、人類は神と共に歩むことを学んできました。エノクは、神との習慣的な交わりをもって神と共に歩み、やがて天に移されました。(創世記5:24) アブラハムも神と共に歩み、神の召しに従って約束の地へと向かいました。(創世記12:1–4) 出エジプトの間、ヘブル人は、神が昼に備えられた雲と夜に備えられた火の柱に従って、神と共に旅をしました。(出エジプト13:21) ヨシュアと新しい世代のヘブル人たちは、約束の地を再び自分たちのものとするために、ヨルダン川の干上がった川床を神と共に歩きました。(ヨシュア3章

上にあげた例にあるように、聖書の「歩む」という言葉は、旅や巡礼を連想させます。それは、単に「ちょっと公園を歩き回ってくるけど、すぐに戻ります」と言う以上のものです。詩篇84篇の5節と7節に詩的に表現されているように、「その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人はさいわいです。… 彼らは力から力に進」むでしょう。つまり、私たちの心はひたすら巡礼の旅に向けられて、(今は目に見えない)イエスと並んで歩んでおり、ついにはイエスと顔を合わせて出会える場所に至るまで、日々力を得続けるということです。

新約聖書では、神と共に歩むことを、しばしば「御霊によって進む」、また別の翻訳では「御霊と歩調を合わせて歩む」と表現しており(ガラテヤ5:25)、それには、愛によって歩むこと、親切や平和の内を歩むことも含まれます。(ガラテヤ5:16, 22–23; ローマ8:4

その一方、私たちはこの世のならわしに従って歩み、神と神の道から離れてしまうこともあります。(エペソ2:1–2) 神と共に歩むとは、神に逆らう者と歩むことも、彼らの助言や模範に従うこともせず(詩篇1:1)、むしろイエスの声に耳を傾けて、道からそれないということです。この世の偶像(現代の科学技術によって作り出された数々の新しい偶像)に従うことなく、主と歩調を合わせて進み、主を賛美して礼拝するのです。

神と共に歩む時、私たちは暗闇の中を歩まず(ヨハネ8:12)、主の光の中を歩むことになります。(イザヤ2:5) そして、その光のいくらかが私たちに反射して、他の人たちの目に映り、彼らをもまた従ってくるように招くのです。多くの人に愛された、あの賛美歌の歌詞にもあるように、「御言葉の光の中を主と共に歩む時、主は何と素晴らしい栄光を私たちの道に注がれることか。」[1]

最後に、神と共に歩むことは、想像もしなかった場所に私たちを連れて行ってくれる魅力的な冒険に乗り出すことです。それには確かに危険や困難がつきものですが、神はそれを乗り越えるための強さと導きと知恵を与えると約束しておられます。ですから、あなたがこの冒険に乗り出したばかりであれ、何年もイエスと共に歩んできたのであれ、あなたがイエスと並んで、このエキサイティングな巡礼の旅を続けることができますように。天国でお会いしましょう。


1 “Trust and Obey,” by John Henry Sammis (1846–1919).

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