人の子の来臨

9月 27, 2024

The Coming of the Son of Man
August 19, 2024

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 11:26
オーディオ・ダウンロード(英語) (10.4MB)

マタイによる福音書24章の前半で、イエスはユダヤ教神殿の破壊を予言されました。そして、ローマ軍が神殿とエルサレム市を破壊する時にユダヤの住民を襲うであろう患難について語られました。

次にイエスは、ご自身が将来戻って来られることについて、弟子たちに話しておられます。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイ24:27) この節は、イエス(人の子)の来臨が人目につかずに起こるわけではないことをはっきりさせています。むしろ、人の子が来られる時、それは空を照らす稲妻のひらめきのように誰の目にも明らかなのであり、すべての人がそれを目にするのです。

イエスはさらにこう言われました。「その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。」(マタイ24:29)

このイエスの言葉は、旧約聖書にある次の(そして、もう一つ別の)箇所の記述にかなり近い言い方がされています。「見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。天の星とその星座とはその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない。」(イザヤ13:9–10)

イエスは続けてこう言われます。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイ24:30)

マタイの福音書は、人の子の来臨を地上の人々がどう思うかにも触れています。彼らは「嘆く(悲しむ)」と言うのです。人の子の来臨はすべての人から喜ばれるわけではありません。人々は、イエスの再臨によってすべてが変わり、彼らが今知っている生き方に終止符が打たれるということに気がつくのです。イエスの再臨は、最初に地上に来られた時に赤ん坊として生まれたのとは違います。今回は、力と大いなる栄光とをもって来られるとあり、それは王が威厳をもって現れるさまを表しています。

「また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」(マタイ24:31) 王である方の出現に伴い、その民、つまり主を受け入れ信じた人たちが呼び集められます。「天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」とは、信者が一人として取り残されることなく、見落とされる者がいないということです。

御使いたちが大きなラッパの音と共につかわされることについては、使徒パウロもこのように書いています。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(1コリント15:51–52)

イエスは続けてこう言われます。「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32–33) いちじくの木に新芽ができると、それは夏の近いことを示しているように、29節に書かれていることなど、イエスの話しておられた出来事が起こり始めるのを見たなら、信者たちはイエスの戻ってこられる時も近いと知るべきだということです。

「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代[の人々]は滅びることがない。」(マタイ24:34) 「この時代の人々」が誰であるのか、聖書解説者によってさまざまな解釈がありますが、イエスがご自身の再臨の際に生きている人々のことを言っておられるのは明らかです。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ24:35) 天と地はこれまで幾時代にも渡って存在してきましたが、いずれ滅びます。しかし、それと対照的に、イエスの言葉は永遠に残ります。イエスの語られたことは、必ず実現するのです。

次に、イエスはこう言われます。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24:36) 歴史を通じて、イエスがいつ戻ってこられるかについて、数多くの「予言」がなされてきましたが、そのいずれも実現していません。イエスの再臨の時期は、父以外の誰も知らないとイエスが明言されたのですから、それもそのはずです。イエスは父と同じく神であるのに、天地が滅びるその日、その時を知らなかったのはなぜだろうと不思議に思う人がいることでしょう。これは三位一体の内部の働きについての神秘であって、私たちの理解の及ばないことです。(イザヤ55:8–9

イエスはマタイ24章で、続けてこう言われます。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」(マタイ24:37–39)

ここでイエスは、ご自身の再臨は予告なく突然に起こるため、その時に生きている人たちは、日常的な普段通りのことをして日々を過ごしていると言われます。「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」(マタイ24:40–41)

イエスの再臨の時に人々がこのように日常生活を送り、仕事をしている例があげられていますが、それは前もって用意していることの重要性を示しています。どちらの例でも、人々は2つに分けられ、離されています。キリストを信じる選択をした人は永遠にキリストと共にいるようになりますが、キリストを拒絶し、神なしで生きるという意識的な決断をした人はその選択が尊重され、その結果、永久に神から離れることになります。

「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」(マタイ24:42) イエスは、ご自身が戻ってこられるのは確実なので、それがいつ起こってもいいように常に備えておくよう、信者たちに求めておられます。「このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。」(マタイ24:43)

盗人の例えは、新約聖書全体を通して、イエスが思いがけない時に再臨されること、そして現代のクリスチャンも含め、信者は準備のできた状態で生きるべきであることを明確にするために使われています。たとえば、使徒パウロはこのように書いています。「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。… しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。」(1テサロニケ5:2–4)

続けて、イエスはこう言われました。「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(マタイ24:45–47)

イエスは、常に用意しておくべきことを伝えた上で、忠実な思慮深い僕のたとえに話を移しておられます。僕を多数抱えた家で、僕の一人が、家の主人によって責任ある地位につけられました。数ある責任の一つが、家の者たちの食事がちゃんと備えられていることを確かめることです。この僕は勤勉に仕事をしました。家の主人がいつ戻ってくるのかはわからないけれど、それは彼にとって大切なことではなく、ただ自分の仕事を忠実に行うことに専念しています。主人が帰ってきた時、この僕は祝福されます。主人は、この僕に自分の全財産を管理させるという形で、彼に報いるのです。

忠実な僕への報いとは、より重大な責任のある地位において主人に仕える機会であり、それが、次に挙げる悪い僕が受ける報いと対比されています。「もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら …」(マタイ24:48–49)

イエスが「もしそれが悪い僕であって」という仮定上の例をあげて言われたように、先ほどとは異なる結果になる可能性もあるのです。この僕には、最初の僕のような道徳的な強さがありません。主人がいないので、しばらくは誰にも釈明する必要がなく、自分勝手に無責任な行動をしても構わないと考えています。そうして彼の本性は現され、一時的に与えられた権限を用いて、僕仲間を叩き、酒飲みたちと飲んだり食べたりするようになりました。

「その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイ24:50–51) 「歯がみ(歯ぎしり)をする」は、マタイの福音書に何度も登場する言い回しであり、神との関係によって救われることなく死にゆく人の痛み、嘆き、苦悩、苦しみを表しています。この悪い僕は、主人が帰ってきて、自分のしたことの責任が問われるという事実を見失っていたのです。

僕が考えていたよりも長い間、主人が家を離れていたからといって、主人が二度と戻らないということではありません。それと同じく、人の子の戻られるのも遅くなっているように感じるかも知れませんが、だからといって、二度と戻らないというわけではないのです。この章の前の方でイエスが言われたように、「あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)

イエスが昇天されて以来、信者たちは再臨の時をずっと待っています。この2千年間、多くのクリスチャンが人生を生き、そしてこの世を去って、主の元へと行きました。イエスが戻ってこられる時、地上に生きている者たちが再臨を経験することになります。そして、第1テサロニケには、すでにこの世を去った人たちがイエスと一緒に戻ってくると書かれています。(1テサロニケ4:14

イエスが再臨されることは、キリスト教信仰の重要な部分ですが、私たちより先に世を去ったクリスチャンたちと同様、私たちもまた、それが起こる時には地上にいないかもしれません。ですから、イエスの再臨の前にどのような出来事があるのかは大切なことではあるけれど、地上にいる間に私たちがどのような生き方をするかということの方が大切です。私たちは、他の人たちを愛し、福音を伝え、最善を尽くしてイエスの教えに生き、私たちの行動を通して他の人たちをイエスに引き寄せるよう召されています。私たち全員が、私たちのために命をささげてくださった方の手本に従うべく励むことができますように。

初版は2021年3月 2024年8月に改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ

Copyright © 2024 The Family International