9月 18, 2024
最後の晩餐で、イエスは弟子たちの足を洗ってから、今では告別説教として知られる話をしています。(ヨハネ14–17章) その中で、イエスは弟子たちに、ご自身の平安を与えると約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)
平安(心の平和)には様々な形やレベルがありますが、イエスが与えようとしておられる平安は深遠であり、周囲の環境を超越できるものです。普通ならば、私たちの心が騒ぐような状況でも、この平安は私たちの心に入ってきます。
復活の後、イエスが初めて弟子たちの前に姿を表した時には、「平安があなたがたにあるように」と二度言われました。(ヨハネ20:19, 21 新改訳2017) そして、8日後に再び現れて、三度目に同じことを言われたのです。(ヨハネ20:26 新改訳2017) この深く永続的な平安は、この世が与えることのできるものではなく、主によって約束された贈り物です。神の平安に関する他の多くの聖書の節をいくつか比べてみると、それが神の安息、神の忍耐、神の力と密接に結びついており、そして言うまでもなく、神と神の言葉に対する私たちの服従と愛とも密接に結びついていることがわかります。「神を待ち望む」ことや「神の御言葉の声を聞く」こと、そして、それによって神の平安がもたらされることについて、多くの聖句があります。
イザヤ40章31節は、待ち望むことによって与えられる力について述べています。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」
バプテスマのヨハネは、その宣教の終わり頃に、イエスの語る言葉を聞いて喜びました。(ヨハネ3:29) また、イエスは、イエスの言葉を聞いてそれを実行するのが賢明なことであり、そうすることによって、私たちはいつまでも続くものの上に人生の土台を築く人のようになると教えています。(マタイ7:24)
「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません。」(詩篇119:165) あるいは、他の英訳聖書にあるように「立腹させることはできません。」 神の言葉を忠実に学ぶことで培われる平安は、私たちが立腹したり、つまずいたりすることを防ぐ力を持っています。私たちが知っているように、立腹、つまり憤りは、平安と充足感を殺すものです。
また、主の言葉を黙想し、学ぶにつれて、私たちは、イエスの麗しさ、私たちに対するイエスの誠実さ、そして、十字架上の犠牲を通してイエスが私たちに与えてくださった素晴らしいものを、ますます実感するようになります。「キリストはわたしたちの平和」(エペソ2:14)であり、「平和の君」(イザヤ9:6)なのです。
アンドリュー・マーレーの著作は、私たちが神を待ち望むことによって忍耐を学ぶ時、いかに大きな平安と安息がもたらされるかを明らかにしています。
ペイシェンス(英語で「忍耐」)という言葉は、苦しみを意味するラテン語に由来します。私たちが喜んで解放されたいと思うような、何らかの力による束縛を受けていることを示唆するものです。それは、意に反して服従することから始まります。私たちがこれまでの経験から学んだのは、抵抗しても無駄な時には、辛抱強く忍耐することが、最も賢明な道だということなのです。
神を待ち望む時、それは限りない結果をもたらします。私たちはただ服従せざるを得ないから服従するのではなく、神聖なる御父の手の中にいることに、愛情と喜びをもって同意するがゆえに服従するからです。その時、忍耐は私たちの最高の祝福となり、最高の恵みとなります。忍耐は、神に敬意を示すものであり、神が私たちに対して思い通りのことをされる時間を与えます。それは、主のいつくしみと誠実さに対する信仰の最高の表現です。また、神がその御業をなしておられるという確信のもとに、私たちの魂に全き安息[全き平安]をもたらしてくれます。それは、神が最善と思われる方法とタイミングで私たちに対処することに、私たちが全面的に同意したしるしです。真の忍耐とは、自分の意志を捨てることなのです。…
忍耐は恵みであり、そのために、非常に特別な恵みが与えられます。「神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍」ぶための恵みです。(コロサイ1:11) 落ち込みやすい人がいるなら、勇気を出してください。私たちの弱々しく不完全な「待つ過程」においてこそ、神ご自身が、その秘められた力によって、私たちを強め、私たちの内に聖徒たちの忍耐とキリストご自身の忍耐を働かせてくださるのです。… 忍耐強く神を待ち望むことは、豊かな報いをもたらします。解放は確実にあるのです。神ご自身が、あなたの口に新しい歌を授けてくださいます。(詩篇40:1,3)[1]
妻は、少し前に起こったある出来事を覚えています。夜中に私は、ある人から車で送ってほしいと頼まれたのですが、結局、行き先の町まで一時間以上もかかりました。この知人は、私たちが住むこの小さな町のバス停でバスに乗り遅れ、次の停留所でバスに追いつくために、どうしても車で送ってもらう必要があったのですが、それが、一時間以上離れた大都市にあったのです。そして、たまたま私たちがいたので、連れて行ってあげることにしたわけです。もう遅い時間だったので、妻は家に残りました。
出発後、妻は私の様子を確認しようと、何度も電話してきましたが、そのことを私は知りませんでした。人里離れた道を運転していたため、携帯電話の電波が届かなかったからです。妻は不安でいっぱいになり、ついに必死でイエスに祈りました。すると、いつもながら素晴らしいことに、妻の魂は、力強い平安によって、説明できないほどに満たされたので、彼女は安らかに眠りにつきました。私は真夜中過ぎに、何も問題なく家に戻りました。
このように恐怖と不安を引き起こすような恐ろしい状況は、私たちの誰にでも起こり得ますが、それは神の平安によって克服することができます。神に感謝すべきことに、神はそのような状況のただ中でも、神の平安を与えてくださるのです。神は、平安を与える神の契約は揺れ動くことがないと約束されました。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:10)
1 Andrew Murray, Waiting on God, chapter 14, “The Way to the New Song.”
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