光あれ

9月 6, 2024

Let There Be Light
March 30, 2022

コース・ステンヘル

オランダ人伝道者コーリー・テン・ブームが語った美しい証のことを聞きました。アフリカの灌木地帯の陰うつな場所にある、かなり暗い雰囲気の刑務所を訪れた時の話です。大部分の収監者は、屋根のある場所を与えられず、ほとんどの時間、人間性を否定された状態で、戸外に押しやられていました。そして、残酷な有刺鉄線で囲まれた敷地の中で、神経をピリピリさせ、指をムズムズさせて、引き金を引くことをためらわない、武装した看守たちに見張られていました。

そんな悲惨な絶望の淵で、受刑者たちは己の罪の報いを受けなければならなかったのです。灼熱の太陽の下で、日よけのない場所に座っていることもあれば、容赦ない暴風雨に鞭打たれ、痩せこけてガリガリの体を寒さで震わせることもありました。

宣教師であるコーリーがそこを訪問したのは、嵐が吹き荒れた直後です。敷地内は巨大な泥沼と化し、元気なく悲痛な面持ちで苦しみに耐える人々で溢れていました。そこでは、希望という言葉がその意味を失っており、この人たちに神は善き方だと語っても、それは茶番であるように感じられました。神が善き方であり、しかも常に善き方であることを、どうやってこの人たちに伝えればいいのでしょうか。

闇の力は狡猾で、邪悪なことにおいて非常に賢く、悪を育むことが非常にうまいのです。闇は、迷える魂に、神は偽りであり、将来に見込めることと言えば、地上の地獄と来世の地獄しかないと信じ込ませるため、いかなる善悪の観念も無意味なものになってしまうほど、人間をたくさんの抑圧と全くの暗黒の中に沈めようとします。そうなると、残されたのは、利己的に振る舞わざるをえない、自己保全のための過酷な闘いだけになってしまいます。

それが、暗闇の時における悪の力です。

コーリー自身も若い頃、家族でユダヤ人をかくまったことで、刑務所に収監され、そこからラーフェンスブリュック強制収容所に送られています。そこで彼女は、自分自身の苦しみの日々と、神に忘れられたという嘘に屈する誘惑との闘いを思い出しました。

ただ、神は彼女を忘れてなどいませんでした。

栄光ある福音の光によってこの世を清める戦いに、彼女が加わったという事実そのものが、そのことを十分に証言しています。しかし、虚ろな目で彼女を見つめるこの希望を持たない泥まみれの人々に、どうすれば、主がどれほど真実な方であるかを納得してもらえるでしょうか。

「この人たちに必要なのは、喜びだ。」

その言葉が、いきなり、彼女の心に浮かびました。そこに必要とされていたのは、喜びだと。本当の喜び、心の奥底から湧き出る喜び、超自然的な喜びです。つかの間のこの世の喜びではなく、永遠への架け橋となる喜びを必要としていたのです。

そこで、彼女は祈りました。シンプルながらも、確信に満ちた祈りです。「主よ、私を喜びで満たし、それが受刑者たちの上に溢れ出るほどにしてください。この闇は私には深すぎますが、あなたはすでに世に勝っておられます。」

それから、受刑者たちに話し始めました。

すると、喜びが彼女の心に沸き上がり、祈ったとおりに、その喜びが泥にまみれた囚人たちの心を動かしたのです。まず一人、そしてまた一人と続き、ついには群衆全体に喜びが広がっていきました。悲惨な状態にあった受刑者たちが、イエスが地上に来られた理由を初めて理解した時、彼らの上に希望が降り注ぎ、間もなく、その場所全体が一変しました。それは、人間の知恵や、巧みな話し手の賢明な言葉によってではありませんでした。そうではなく、聖霊がその場を占有し、闇を追い出してくださったのです。

彼女が話を終えて、立ち去る時間になると、受刑者も看守も彼女への感謝の気持ちに駆られ、手を振って別れを告げながら歩いている内に、有刺鉄線のフェンスの外側に出てしまいました。しかし、一発の発砲もなく、一人の脱走者もいなかったのです。そして、口々にこう叫びました。「また来て、天の王について、もっと話してください。」

それが、闇と戦う方法なのです。自分の力でも、分析によってでもなく、闇を避けたり、知恵で打ち負かしたりする方法を見つけることによってでもありません。そうではなく、光を取り込むことによって、そして、神が最もお得意なこと、つまり、神の愛という杖で闇を打ち砕いていただくことによってです。何と言っても、「光あれ」と言われた時、神は本気でそう言われ、そのとおりに光が現れたのですから。

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