主は私たちと共におられる

8月 28, 2024

He Is with Us
February 17, 2021

スティーブ・ハーツ

神が私に、一歩踏み出して自分が心地よく感じる範囲を超えた何かをするよう求める時、私の最初の反応は、多くの場合、確信のなさ、不安、そして全くの恐れです。そして、起こり得るあらゆる問題について考え始め、「もしそうなったらどうする」と自問するのです。また、自分の至らなさや弱さ、そして、自分には神が求めておられることができないと感じる理由についても、あれこれ考え始めてしまいます。あなたにも身に覚えがあるでしょうか。

そのような思考様式でいると、一つの非常に重要な事実を見失ってしまいます。つまり、神が私に何かをするよう求めているのであれば、私がそれをするにあたり、神は私と共にいてくださるつもりなのだということです。

聖書の記述を読んでいると、私より前に生きた人たちの多くが、神が自分に対する御心を明かされた時、私と同様、一時的に確信がなく不安になるという傾向があったことがわかり、励まされます。彼らは、神が彼らと共におり、これからも常に共にいてくださることを思い起こさなければならなかったのです。

神が燃える柴の中からモーセに語りかけて、ヘブル人を奴隷状態から解放するために彼を選んだと言われた時、モーセはこう答えました。「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか。」 すると、神はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。」[1]

その後、モーセが自分は雄弁ではないし、口が重いと言い張った時、神は言われました。「行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう。」[2]

ギデオンの物語を調べていた時も、まったく同じことに気づきました。「主の使は彼に現れて言った、『大勇士よ、主はあなたと共におられます。』 ギデオンは言った、『ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が「主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか」といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました。』 主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか。』」[3]

私はこのような例を見ると、神が私たちと共にいてくださることを、私たちに(時には何度も繰り返して)再確認させてくださる神の忠実さに深く感謝します。私たちがそのように思い起こさせてもらう必要があることを、神は非難したりされません。[4] そうではなく、神は私たちの焦点を、限界のある不十分な自分自身から、主が共にいてくださるという不変の事実に移すべきことを、愛情深く私たちに思い起こさせ、またそうするよう励まされるのです。

ダビデがゴリアテに立ち向かい、打ち勝つことができたのは、彼がいた状況のおかげではなく、彼が神の臨在に意識を集中させると決意していたからです。[5]

モーセの死後、ヨシュアが神の民を率いる立場になった時、少なからず不安を感じたに違いありません。しかし、神は彼にこう言われました。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」[6]

イエスも、地上でのご自分の使命がどのように終わるかを十分に理解した上で、逮捕される直前に、確信をもって弟子たちに言われました。「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」[7]

ですから、聖書のこれらの例を心に留めておけば、神が私に命じられたことや、直接語ってくださったことに取り掛かる時はいつでも、恐れたりためらったりする必要がありません。なぜなら、主が私と共におられるからです。主は、「世の終りまで」、いつも私たちと共にいると約束されました。[8]


1 出エジプト 3:11–12.

2 出エジプト 4:12.

3 士師 6:12–14.

4 参照: ヨハネ 15:5.

5 参照: サムエル上 17.

6 ヨシュア 1:5.

7 ヨハネ 16:32.

8 マタイ 28:20.

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