期待に満ちた信仰

7月 29, 2024

Expectant Faith
May 16, 2024

オーディオ所要時間: 9:32
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「信仰」は、今日ではその意味をかなり失っています。今日、信仰という言葉は、何かをぼんやり、漠然と信じることを指して用いられる傾向にあるのです。しかし、神の御言葉では、それよりもずっと深い意味で使われています。信仰とは、「望んでいる事柄の実体であり、目に見えていないものの証拠」(ヘブル11:1 英語欽定訳聖書)、つまり「権利証書」なのです。

約400年前、ギリシャ語で書かれた新約聖書を英語に翻訳するにあたり、翻訳者たちはある問題にぶつかり、困っていました。それは、ヘブル11章にある「ヒュポスタシス」という言葉をどう訳すべきかということです。彼らは、他のギリシャ語文献での用法から、この言葉は明らかに、かなり実体のあるものを意味していると知っていました。

近代になって、考古学者たちが、イスラエル北部で古い宿屋の焼け跡を発掘したのですが、そこで出土した小さな鉄の箱の中に、自分が所有するいくつもの土地を調べるためにイスラエルを旅していた、ローマの貴婦人のものらしき書類が入っていました。この小箱の中にある書類のほとんどに、「ヒュポスタシス」という表題が付けられていました。それは、その婦人の所有地の権利証書だったのです。

ヘブル11:1[英語欽定訳聖書]で用いられている「実体(サブスタンス)」という言葉でも、同じくらいよく意味は伝わりますが、さらに明瞭明白にしたいのであれば、「実体」という言葉の横に「権利証書」と書き込んで、「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書」とするといいでしょう。

このローマの婦人は、自分が購入したイスラエルの土地を見たことはなかったかもしれませんが、自分が所有していることを知っており、権利証書によってその所有権を証明することができました。それと同じく、信仰があるなら、まだ神の言葉の成就を見ていないとしても、あなたには信仰という権利証書があり、いずれそれを自分の目で見ることでしょう。

では、どうすればそのような信仰を得ることができるのでしょうか。聖書には、こうあります。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:17) 時間をかけて聖書を読んで勉強し、「信仰を増してください」(ルカ17:5)と主にお願いしましょう。イエスは言われました。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(マルコ11:24)

祈りは、神との個人的なコミュニケーションの手段です。人間のニーズを神の供給源と結びつけるものであり、子どもが、父は自分を愛し、叫び求める時にそれを聞き、答えてくださると期待して、父に向けて発する叫びなのです。「あなたがたは … 自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」(マタイ7:11)

ある牧師が、かなりユーモラスに、自分の会衆全体が「ギミー病」にかかっていると言ったそうです。しきりに主にお願いをしてばかりで、主が自分たちの祈りを聞いて、答えてくださると信じていないからです。しきりに「ギブミー、ギブミー、ギブミー」と言うばかりで、彼らの祈りの生活は、頼み事が中心でした。[訳注:ギミーとは、ギブミー(ください)の略式表現で、何かをねだり欲しがることを意味しています。]

こんな話があります。バージニア州の山麓の丘にある田舎の教会に、年老いた用務員がおり、祈祷会の部屋とつながっている鐘楼で、ハシゴのてっぺんに立って作業をしていました。祈祷会のために少し早めに来た人たちがいたので、ハシゴの上に腰掛けて、彼らにこう話しかけました。

「鐘が鳴らないのはどうしてだと思いますか。この古い鐘楼には、教会の屋根より上に行かなかった祈りが詰まっていて、鐘が動くスペースがなくなったんですよ。祈りには信仰が伴わなければならないし、神が答えてくださると期待しなければならないことを、皆さんはご存知ないのですか。」

祈りは単なる儀式ではなく、神とのコミュニケーション手段です。電話を使うのと同じくらいリアルで正真正銘の手段であり、電話以上にそうだと言えます。回線の向こう側には、常に神がおられます。そして、神は御言葉の中で次のように約束されました。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、 彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)

私たちの天の父の目はご自身の子らに注がれ、その耳は彼らの祈りに傾けられます。(1ペテロ3:12) 神は眠っておらず、長旅に出ているわけでもありません。

聖書の列王紀上18章には、エリヤが異教徒たちに、どちらの神が祈りに答えて、捧げ物を火で焼くのか見てみるよう挑んでいる話があります。異教徒たちは自分の神に祈っても答えを受け取れなかったので、エリヤは彼らをあざけりました。

「彼らは …『バアルよ、答えてください』と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかった …。昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、『彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか。』 … しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。」(列王紀上18:26–29)

しかし、エリヤが神に犠牲を捧げると、こんなことが起こりました。「そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。民は皆見て、ひれ伏して言った、『主が神である。主が神である。』」(列王紀上18:38–39)

何年か前、ある父親が、クリスチャンではない息子のために祈りを求めました。教会で祈りの要請があるたびに、彼はその少年が救われるよう祈りを求め続けてきたのです。そして、ついにある夜、少年は牧師の招きに応じて講壇の方へ行き、神に心を捧げました。

祈りの後、わが子のために長らく祈ってきたこの父親は、息子がキリストを受け入れたという知らせを聞いて、こう答えました。「何かの間違いでしょう。それはきっと、息子と同じ名前の別の子ですよ。」 それが彼の息子であり、本当に救われたのだと納得させるのに、5分ほどかかりました。

その夜、父親は証をして、20年間息子のために祈ってきたけれど、その子がクリスチャンになったと知った時ほど驚いたことはなかったと言いました。息子の人生に神が働いてくださると期待することなく、20年間も祈り続けていたことを想像してみてください。彼は聖書に、神の言葉としての深い信頼を寄せていましたが、神が自分の祈りを聞いて答えてくださるという期待も希望も抱かなかったのです。

神の子が、ほんのわずかな期待も信仰も希望も持たずに、何度も何度もただ祈り続けることは、無限なる神の心をどれほど悲しませることでしょう。私たちは、あまりにも多くの時、自分が何の努力もせずに、神が私たちに必要なものをすべてただ与えてほしいと思ってしまいます。神は私たちの祈りを聞き、私たちに必要なものを与えると約束はされましたが、そのための条件もあります。その条件とは、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」ということであり、「そうすれば、そのとおりになる」のです。(マルコ11:24)

神には、ご自身の条件を定める権利があります。そして、私たちが神の言葉を信じることによって神に敬意を払うことは、神が私たちに求めることのできる最小限のことなのです。神の言葉は、完璧でなければ神に喜ばれることができないとは言いません。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と言っているのです。「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11:6)

もし今日、あなたの心に、神を喜ばせたいという願いがあるのなら、神を信じることによって、また、神が御心に従って、あなたの人生において約束を果たしてくださると信頼することによって、神の言葉に敬意を払いましょう。神は、必ずしもあなたが期待する方法で祈りに答えてくださるとは限りません。しかし、神が最善であると知っておられる方法で必ず答え、あなたの人生に対するご計画を成就させてくださると確信できます。ですから、神があなたの願いを聞き、あなたの祈りに答えてくださることを信じ、期待に満ちた信仰をもって、あらゆる心配事と必要を神に委ねてください。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」(1ヨハネ5:14–15)

1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年5月改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

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