7月 23, 2024
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき … なさい。—ローマ12:2 聖書協会共同訳
聖書に出てくる神の偉大な人や預言者について読む時、きっと彼らは皆、社会的に尊敬されている、その地域の立派な市民であったと考えるのは自然なことです。しかし、聖書の有名な登場人物の話をよく見てみると、そのような偉大な「聖人」たちの人生は型破りなものであったことが多いとわかります。彼らは、欠点のある普通の信仰者でしたが、なぜ神が彼らに特定のことをするよう求めておられるのかまったくわからない時でも、ただ神を信じ、神の導きに従い、神の命令を守りました。
時に、神は彼らの自然な期待や理屈に反することを求められたこともあります。それでも彼らは、「見えるものによらないで、信仰によって歩いている」のであり(2コリント5:7)、神がそう言われたからという理由だけで、信仰によって従いました。彼らも、もっと良い方法があるはずだと神に反論することはありましたが、彼らがついに神の働きに任せ、信仰によって従った時、神には計画があり、神の道(方法)は神の御心を成就するための正しい道であることを知ったのです。
ウィリアム・カウパー(1731–1800)の詩に、「神は不可思議な方法で素晴らしい御業をなさる」という一節がありますが、神が用いられた有名な聖書の登場人物の生涯をよく調べてみれば、それが間違いなく真実であることがわかります。人類の歴史における神の奇跡的な介入は、それが人間ではなく神の御業であることを示しています。ですから、神こそが、その力強い御業とすぐれた御力のゆえに、すべての栄光を受けられるのです。
主はこう言われます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8–9) 聖書全体を通して、神はしばしば、人々の自然な期待に反した予期せぬ方法で働かれたし、時には、伝統にとらわれない型破りな方法でさえ使われました。
聖書には、こうあります。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」(1ペテロ2:9) 真に主を愛し、主に従う人たちは、これからも常に、不信仰な世界の大多数とは異なった存在となります。世の道よりも神の道を選んだ民だからです。
この世の道は、神の物事の見方とはかなり異なることがよくあります。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。」(1コリント2:14 聖書協会共同訳) イエスは、この世で尊ばれるものは、神の目には忌むべきものであるとさえ言われました。(ルカ16:15)
ノアが突然、水のない陸地に巨大な船を建造し始めた時、当時の世界が彼をどう見たか、想像してみてください。最終的に大型の船が完成するまで、毎日毎日、120年もの間、ノアは働き続けました。それは、まったく想像を絶し、馬鹿げており、完全に不合理なことだったので、人々はきっとノアが正気を失ったと思ったに違いありません。それまで誰も、そんな事をやろうとしたことはなかったし、そうすべきだという明確な理由もなかったのですから。
しかし、それでもノアとその息子たちは、神に従い、船を建造し、不信心な世界に差し迫った神の裁きを忠実に警告しました。そのために、ノアは笑われ、嘲られたけれど、神が言われたとおりに、洪水は起こったのです。そして、悪と罪のために当時の世界を溺れさせたまさにその水が、箱舟を地上より高く持ち上げて、文字通りノアとその家族を救いました。(参照: 創世記6–8章)
旧約聖書に登場するもう一人の型破りな人物は、イスラエルの偉大な王ダビデです。預言者サムエルは、エッサイの息子の一人を次の王にするために油を注ごうとベツレヘムに行った時、長男エリアブに会って、「この人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思いました。(サムエル上16:6) しかし、主はサムエルにこう言われたのです。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」(サムエル上16:7)
エッサイの他の6人の息子たちとも会い、祈りを込めて考慮した後、サムエルはこう言いました。「主はこれらの者たちを選ばれなかった。あなたの息子たちは全員ここにいますか。」 エッサイが「まだ末の子が残っていますが、今は羊の番をしています」と答えたので、サムエルは人をやってその子を連れてこさせました。父親からもまさか選ばれるとは思われていなかったその子ダビデが部屋に入ってくるなり、主はサムエルに言われました。「立って彼に油を注ぎなさい。これが、わたしが王として選んでおいた人である。」(サムエル上16:12)
それからしばらくして、ダビデとゴリアテのあの有名な対決が起こりました。サウル王は当初、ダビデを巨人ゴリアテと戦わせることを拒みました。なぜなら、この羊飼いの少年があの強大な戦士にかなうはずがないと考えたからです。しかし、ダビデを思いとどまらせることができないとわかると、王である自分のよろいかぶとを着けさせ、自分の剣を持って行かせようとしました。しかし、ダビデはこれを断り、羊飼いの木の杖と石投げ、そして数個の石で武装して戦いに臨みました。
巨人ゴリアテは、そんな弱々しい相手が自分に向かってくるのを見て侮辱されたと感じ、こうののしりました。「こんな少年を送って、杖で戦わせようとは、俺は犬なのか。」(サムエル上17:43) ダビデは彼に大声で答えました。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。この全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。」(サムエル17:45–47)
それからダビデが、ゴリアテに走り寄り、正真正銘のただの石ころ一つを石投げで投げると、このペリシテ人は額を撃たれて地に倒れました。こうして主は、イスラエル軍の熟練した将軍や参謀たちが想像も考えもしなかったような方法で、大勝利を収められたのです。
もう一つの例が、ギデオンの物語に見られます。ギデオンは素朴な農夫の息子でしたが、主は彼と共におられ、やがて、32,000人のイスラエル兵を率いることになりました。敵である「ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた」とあり(士師7:12)、このはるかに優勢な敵軍と交戦する前に、主はギデオンに驚くべきことを語られました。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。」(士師7:2)
主はギデオンに、31,700人の兵士を家に帰らせるよう言われ、彼のもとにはわずか300人の兵士しか残されませんでした。それから主がギデオンに言われたのは、その300人を3つの小隊に分けることです。ギデオンは兵士それぞれにラッパとつぼを持たせ、そのつぼの中にたいまつをともさせました。そして彼らは、夜の間に敵の広大な陣営に忍び寄り、四方から敵陣を取り囲んだのです。ギデオンが合図をすると、兵士たちは大声を上げてラッパを吹き鳴らし、つぼを打ち砕きました。
ミデアン軍は、300個の陶器のつぼが一斉に砕かれた恐ろしく凄まじい音、彼らを四方から取り囲む300本の明るいたいまつから突然に放たれたあふれる光、そして、300のラッパを吹き鳴らすギデオンの兵士たちが発した大音響に驚き、恐れおののいて、パニックに陥ったので、混乱のあまり文字通り同士討ちを始めました。こうして、敵軍は至るところで叫び声を上げて走りながら逃げ去り、さらに主が彼らの剣を互いに向けさせたので、全軍がギデオンの前から敗走しました。(士師7:15–22)
なんと型破りで不名誉な勝ち方なのでしょう。しかし、神こそが、ギデオンの一隊を用いて敵を制圧された方であり、ギデオンとイスラエルは、勝利を与えてくださったことで神に感謝することしかできなかったのです。彼らが演じた役割は、一見ばかげたものでした。つぼを砕き、たいまつを振り、ラッパを吹き鳴らし、力いっぱい叫ぶだけです。この戦いで勝利の手柄を得られるのは、主以外に誰がいるでしょうか。それでも、ギデオンは中心的な役割を担いました。神を信じ、神の導きに従わなければならなかったのですから。
慣例に反する神の型破りな働き方の一番の例は、御子イエスの誕生、生涯、そして死にあります。王の王である方が、宮廷の名士たちに囲まれ、ローマからの栄誉と称賛を一身に浴びて、宮殿で生まれたとしたら、どれほど尊敬され、受け入れられていたか考えてみてください。しかし、神がその代わりに選ばれたのは、御子が牛やロバのいる家畜小屋でこの世に生まれ、ぼろ布に包まれて飼い葉桶に寝かされることでした。そして、そこにいたのは、床にひざまずいて御子を礼拝する貧しい羊飼いの少年たちです。
常識的に考えれば、もしイエスが当時の世界から認められ、受け入れられていたなら、もっと良いスタートを切れたはずです。しかし神は、影響力と権力のある著名人をイエスの地上での父親とする代わりに、慎ましい大工ヨセフを選ばれました。マリヤとヨセフは、世間から受け入れられ、尊敬されるどころか、不正義からの逃亡者となることを余儀なくされ、まだ赤ん坊のイエスを連れて、命からがら異国へと逃れたのです。
イエスが弟子に選んだ人たちのことも考えてみてください。サンヘドリン(律法学者や国の宗教指導者たちからなるユダヤ人の法廷)から選ぶのではなく、庶民である漁師や、他から軽蔑されていた取税人を、最も近い弟子として選ばれたのです。イエスは、権力を持つ宗教体制やそのヒエラルキーと協力し、その祝福を得る代わりに、当時の宗教指導者たちに絶えず異議を唱え、彼らのしきたりや伝統に逆らいました。
聖書には、イエスは鞭を作って神殿の敷地に押しかけ、神殿を商売の場にしているとして両替人に鞭をふるい、台をひっくり返して金をまき散らしたとあります。(ヨハネ2:14–16) イエスは、彼らの宗教の象徴であるエルサレムの大神殿が破壊されるとさえ預言しました。(マタイ24:1–2) 彼らがイエスを、神を汚し冒涜しているとして非難したのも無理はありません。イエスは、そのような行為が結果的に宗教指導者たちからの迫害と報復を招くと知っておられたし、実際にそうなりました。イエスは鞭打たれて公開処刑され、二人の盗賊の間に十字架で無惨にもはりつけにされたのです。
復活後、イエスは宗教家であったパウロを使徒の一人に選ばれました。きっとイエスは、ユダヤ教指導者たちが、自分たちの一人が急進的なクリスチャンになることに良い反応を示さないと知っておられたことでしょう。他のクリスチャンたちにとっても、最悪の迫害者がそのように突然に回心するとは信じがたいことでした。
パウロは、コリントの裕福なクリスチャンたちに、こう書いたことがあります。「神はわたしたち使徒を … 全世界に … 見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、… この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(1コリント4:9–13) 彼は信仰のために迫害や投獄、殴打、その他多くの苦しみを受け、当時の世界に救いのメッセージを伝えて行きました。
聖書の至るところで、神が人々を通して働かれた型破りな方法のすべてを、一つひとつ見てみようとすれば、時間がいくらあっても足りないことでしょう。たとえば、アブラハムがいます。彼は、受け継ぐべき地を与えると神から約束された時、信仰によって従い、「行く先を知らないで」故郷を離れました。(ヘブル11:8) また、モーセもいます。彼は、エジプトと、いずれ自分のものとなるはずだったすべての富と権力を捨てて神に従い、荒野で羊を飼っていましたが、40年後にエジプトに戻ってパロに逆らい、同胞を解放しました。(ヘブル11:23–28) 他にも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがいます。イエスが「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけると、 彼らはすぐに家業である漁を捨ててイエスに従いました。(マタイ4:18–21)
神はしばしば、ご自身の計画と御心を実現するために、まったく普通の人々を通して働かれます。聖書には、こうあります。「[あなたがたの中には]人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」(1コリント1:26–29)
主がそのような人を選び、用いられるのは、彼らが自分の考えや力や知恵だけでは十分ではないことを知っているからであり、だからこそ、主に信頼を置き、主の導きに従うからです。彼らは、世のやり方やしきたりではなく、神の道を喜んで進んで行きます。私たちクリスチャンは、神と神の御心と神の御言葉に従うことを、つまり、世のやり方ではなく、神の道に従うことを求められているのです。
もしあなたが、神の道を進み、イエスについての福音を他の人々に伝えようとするなら、神はあなたを祝福し、あなたと共にいてくださるでしょう。神は、この世の人生においてあなたを祝福するだけではなく、いつかあなたを天の故郷に迎え、こう言われます。「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:23)
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年4月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
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