生き生きとした祈りの生活への鍵

7月 11, 2024

Keys to a Vibrant Prayer Life
December 4, 2023

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 11:52
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祈りは、神との関係において鍵となる要素です。それは神とのコミュニケーションのための主要な手段だからです。私たちは祈りを通して、創造主と会話することができます。

私たちクリスチャンは、イエスを通して与えられた救いゆえに、神の子どもとして御前に進み出るというとてつもない特権にあずかっています。私たちは神と話し、神を賛美し、礼拝し、あがめ、神への愛を告げ、神が私たちのためにして下さったこと、そして引き続きして下さることゆえに神に感謝することができます。隠し事なく神に心の内を伝え、問題や必要を言い表すことができます。また、助けを必要とする人のためにとりなしの祈りをすることもできます。神に願い事を携えて、助けを求めることができます。神が創造された美しいものをどれほど感謝しているかを告げ、私たち一人ひとりが持っている数えきれない祝福を感謝することができます。

疲れ果て、弱くなった時には、そのことを話すことができます。間違いや罪を犯した時には、それを告白してゆるしを求め、そしてゆるしていただくことができます。嬉しい時も悲しい時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、神と話すことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のすべての面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。

祈りは、私たちが神とコミュニケーションを取るための主要な方法です。それは、私たちの日常生活に関与して下さるよう神に求め、私たちにとって大切な事柄に、直接そして親密に関わって下さいとお願いするための方法です。祈りによって神の御前に行く時、私たちの人生や私たちが祈っている人たちの人生において活発な役割を果たして下さるよう、神にお願いしていることになります。祈りは、全体的状況についての現実、つまり私たちが神を必要とし、自分たちの人生に神がいますことを願っているという現実を伝えます。

祈りによって神とコミュニケーションを取ることは、神に近づき、神との関係を深めるための手段であり、その過程で、私たちはもっと信心深くなり、もっとイエスのようになっていきます。祈ることに関しては、福音書でイエスが祈られた時の手本を見たり、イエスが祈りについて教えられたことを読んだりすることによって、学べることがたくさんあります。

祈りについてイエスが信者たちに告げられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。マルコの福音書で、イエスは、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません」と言われました。(マルコ14:36) 「アバ」というのは、一世紀のパレスチナにおいて息子・娘が一生を通して父親を呼ぶ言い方であり、イエスの時代に話されていたアラム語でよく使われた言葉で、「お父さん」や「パパ」という意味です。イエスは祈りの中でこの言葉を使ったし、弟子たちにも同様にするよう教えました。なぜなら、それは信者が神と持っているべき、親しく、愛情のこもった、家族としての関係を表しているからです。

4つの福音書全体において、イエスは祈る時に、父という言葉を使っています。イエスは常に父に祈っており、弟子たちにもそれと同様にするよう教えられました。このようにイエスがアバ(父)という言葉を使われたことにより、救いという贈り物によってあずかることとなった神との個人的な関係がどのようなものであるのかの方向付けが与えられたわけです。私たちは神の息子、娘です。イエスが御子であったのと同様にというわけではなく、神の家族の養子となったということです。私たちは祈るとき、アバ、つまり私たちの父の御前に行きます。

「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」(ガラテヤ4:6–7)

祈りに関する福音書からの教え

イエスは、たとえ話を使って祈りについて教える際、真夜中にパンを借りに来た友(ルカ11:5–7)や、たまりかねて女性の嘆願に応じた不義な裁判官(ルカ18:1–8)といった状況との対比をされました。これらの物語を例に挙げることで、イエスは、もし友人や不義な裁判官が自分たちに為された嘆願に答えるとしたら、天の父はどれほど私たちの嘆願に答えて下さるかということを強調したのです。私たちは寛大で愛情深い父によって祈りが答えられると信頼して良いということを、イエスは明らかにされます。(マタイ7:9–11)

取税人とパリサイ人のたとえ話では、イエスは祈りにおける謙遜さと告白について話しておられます。(ルカ18:10–14) イエスは自分に注目を引くような、大げさでもったいぶった祈りは避けるべきで、むしろ祈りは誠実な心と動機から湧き出るべきだと教えられました。(マタイ6:5–6) イエスの手本により、私たちは一人きりになって祈ることや(ルカ6:12)、感謝の祈りをすること(ヨハネ6:11)、決断に迫られた時に祈ること、他の人のためにとりなすこと(ヨハネ17:6–9)を学びます。

一度、イエスが祈り終えた時に、弟子たちが祈ることを教えて下さいとたずねました。主はそれに応えて、現在「主の祈り」あるいは「天にいますわれらの父よ」(マタイ6:9–13)と呼ばれている祈りを彼らに教えられました。この意味深い祈りは、ここに載せられる以上の十分な説明を受けるに値しますが、要するに、それは次の事柄によって祈るよう私たちに教えています。(1)聖なる至高の神を賛美すること。(2)神の御心が私たちの人生に為されるようにとの願いと、それをいとわないことを表すこと。(3)神が私たちの必要を世話して下さるのを頼みとしているのを認めること。そして、(4)自分たちの罪のゆるしと、(5)悪からの解放を求めることです。

イエスは弟子たちにイエスの御名で父に祈るよう教えられましたが、それ以外にも、福音書の例を見ると、イエスに対しても祈るべきことがわかります。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13–14)

イエスはご自分の手本を通して、また父との関係について教え、それを強調することを通して、祈りの重要性と、どのような状況でどう祈るべきか、そして最も大切なことに、私たちの祈りは神との親密な関係に根ざしているべきことを示されました。私たちは、父が自分を愛し、守り、供給し、世話してくれると知り、信頼して、装いも恐れもなしに父の膝に乗る、子どものようなものです。

自分の祈りの生活について考える

祈りは私たちの霊的生活や、神とのつながり、内面的成長、クリスチャンとしての有効性において極めて重要な役割を果たします。生活の忙しさから離れ、一人きりで祈りの時間を取ることや、さらには夜通し祈りに費やすこと、他の人たちのために取りなすこと、効果のある祈りを祈ることといったイエスの手本は、その足跡を歩こうと願う人たちのための道しるべとなるものです。

祈りについてのイエスの教えや手本と、私たちの祈りの生活とを照らし合わせると、私たちはどの程度良くやっていると言えるでしょうか。私たちは頻繁に祈っているでしょうか。神が答えて下さると心から信じて、信仰によって祈っているでしょうか。神の御心が私たちの思いとは異なるかもしれないことに気づいた上で、御心がなるよう祈っているのでしょうか。神は答えて下さるけれど、その答えは必ずしも「yes」ではないことに、私たちは気づいているでしょうか。

神は「宇宙の使い走り」ではないことを心に留めておくのは大切です。神は私たちの言いなりになって、私たちが神にしてほしいことを命令するのを待っているのではありません。イエスに従う者として、私たちは神の御心に沿って生きるよう励んでいます。つまり、私たちが祈る時には、神の御心の内に、かつ神の御心を求めて祈るのです。主の祈りにはこうあります。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」 祈りとは、神の御心が行われるよう求めることです。

祈りに磨きをかける

祈りにおいて私たちの先を行き、熟達した人たちがいます。ですから、彼らの足跡に従い、その手本をパターンとして利用するなら、私たちもまた、もっと実りや報いのある祈りの生活を送ることができます。

使徒たちは御言葉と祈りに身を捧げ、彼らにとってそのように一番大切なものを、日々の務めによって邪魔されないようにしました。(使徒行伝6:4) マルチン・ルターは、やるべきことが山ほどあった時に、毎日3時間を祈りに捧げました。ジョン・ウェズレーは、毎日2時間を主の御前で費やしました。これらの偉人たちや、その他、クリスチャンとして有意義な生涯を送った人々にとって、祈りに費やした時間は極めて重要な役割を果たしました。

現在私たちが生きているハイペースの生活では、毎日の祈りに何時間も費やすことはできないかもしれませんが、私たちは各々、自分自身の祈りの生活と神の御前で費やす時間を見て、果たして自分は一番大切な関係にある方とコミュニケーションするために十分な時間をつぎ込んでいるかどうかを自問すべきです。私たちが祈りに費やす時間には、神に私たちの人生に関わっていただきたいという深い願いが表れているでしょうか。それとも、どちらかというと行き当たりばったりの約束事なのでしょうか。

祈りとは、私たちだけがしゃべって、神にはただ聞くことだけを期待するという一方通行の会話ではありません。祈る時には、私たちもまた、聖書や、信仰の深い教師・説教師の言っていることや、あるいは、神の御前に静まって心を開き、神の声を聞くことを通して、神が私たちに言わんとすることに対して耳を傾けるべきです。神は何かの印象を与えたり、私たちの思いに何かの考えを置いたり、私たちが受け取る聖書の節や預言を通すなどして、多くの方法で私たちに語りかけることができます。祈りはコミュニケーションであり、コミュニケーションは双方向的なものです。ですから、私たちが言っていることを聞いて下さるよう神にお願いする以外にも、私たちは神に私たちに語りかけるための機会も与えるべきなのです。

コロサイ書でパウロは、「ひたすら祈り続けなさい」と言っています。(コロサイ4:2) 私たちは神との継続的な関係を持つよう求められていますが、それはつまり、神との対話をいつも続け、神に語り、神の導きを求め、神を賛美し、一日を通して神に耳を傾けるという意味です。これは、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒の意味であると捉えられるでしょう。(1テサロニケ5:17)

それでは、どのようにしてより良い祈りの生活を築くべきなのでしょう。実際、これには祈る以外の方法はありません。毎日5キロ走れるようになるにはどうやって鍛えればいいのでしょう。今日、運動とランニングを始め、それを定期的に続けて行き、走る時間や距離を増やしていくと、耐久力がついていきます。祈りもそれと同じです。とにかく始めるのです。

祈りは神とコミュニケーションし、主の御前に進みでて、そこに留まるための手段です。私たち子どもが天の父の膝の上に上る時、私たちはどんなことも神にお願いすることができ、すべてを主に信頼することができます。神の愛と保証と世話を感じることができます。主とコミュニケーションを取っている時、私たちは主から学ぶことができ、次第に主のようになっていくのです。

初版は2014年2月 2023年12月に改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ

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