天からの励まし

7月 7, 2024

Heavenly Encouragement
October 19, 2023

マリア・フォンテーン

オーディオ所要時間: 9:45
オーディオ・ダウンロード(英語) (8.9MB)

私は寒さを感じました。寒い早朝に、暖かくて心地よい布団から出るのは、1日の理想的な始め方とは思えません。

私は疲れていました。昨晩はよく眠れなかったのです。

私はお腹が空いていました。その日、血液検査が終わるまでは、何も口にすることはできません。

それに、私は忙しかったです。原稿を書かなくてはならず、返信しなくてはならないメッセージもありました。

特に、パンデミック下だったので、病院に行くために外に出ることは心配でした。

つまり、恥ずかしいのですが、私は主が造られた素晴らしい日に感謝しているとは言えない状態だったのです。車に乗り込むとき、この言葉を絞り出すのにいかに苦労したことか。「主よ、私を祝福としてください。」 なぜなら、自分が誰かの祝福になることはあまり真剣に考えていなかったからです。自分のことしか頭にありませんでした。しかし主に感謝することに、私のこの気分は一時的で、本当は祝福になりたという本心を、主は知っておられました。

最初に行ったのは検査所です。一度に二人ずつしか中に入れないので、外には長い列ができていました。しばらく並んだ後、車で私を連れてきてくれた友人が言いました。車の方が暖かいし、そこで座って待っていれば疲れることもないと。彼は自分が私のために並んで待っているからと言いました。主はその憐れみによって、その時の私の有様にも関わらず、友人が並ぶ列が検査所の入り口まで見える場所に車を止められるよう取り計らってくれました。

人々の長い列を見ていると、彼らもまた疲れ、弱り、凍え、お腹をすかしているのがわかります。まさにその時、主は私に良心の痛みを与え始め、おそらくその多くはイエスのことを知らないであろう人たちに憐れみの心を持つよう助けられました。

私自身、問題や困難を抱えていますが、イエスがいます。祈ることもできます。自分のことだけでなく、彼らのためにも。祈りには努力が必要です。でも祈りは大きかろうが小さかろうが、どんな状況でも助けになり得ます。というわけで、私は目を閉じて祈りました。

突然、車の窓を叩く音がしました。驚いて目を開けると、愛らしい女性がにっこりと微笑んでいます。窓を開けると、彼女は列に並んで立っている私の友人の脇に誰も座っていない椅子があることと、望むならそこに座れると言いました。何度もお礼を言いましたが、車の方が暖かいのでもう少しここにいたいと思うと言いました。

彼女は微笑みながら他の人のアシストに向かいました。この女性は微笑みながらとても元気そうで活気がありハッピーそうでした。とても気になりました。すると主が私に語りかけました。「彼女はとても特別な人で、人助けが大好きだ。彼女にトラクトをあげてほしい」と。

今主は、私が「自分の祈りを実行に移す」ためにできることを示しているわけです。私は持っていたトラクトを出しました。それを持っていたことを主に感謝しました。順番が近づき車から出て列に戻る時が来ました。私が入ろうとするときに彼女が出てきたので、短い言葉を交わす時間しかありませんでした。時々、主の計画を行動に移す時に必要なのはそれだけです。

通りすぎるとき、彼女にトラクトを差し出しこう言いました。「これはあなたに。優しくしてくれてありがとう。椅子をすすめてくれたし、励まし、元気づけてくれて嬉しかった。他のみんなもきっとそう感じていると思います。」

そして、「あなたは本当に神様からの賜物があると思う」とも付け加えました。こんなことを言うときっと彼女は困惑し、おそらく恥ずかしがると思いましたが、彼女は素早くこう言いました。「ええ、私もそう信じています。」

それ以上詳しい話をする暇はありませんでした。中に入る順番が来たからです。そのトラクトを彼女に渡すことができて、とても感謝しました。時間がなくて私が言えなかったことがそこに書かれています。

検査所内では、血液をとった若い女性がとても優しく気を利かせてくれました。私は、彼女たちはとても重要な仕事をしていると告げ、血液の検体に対しとても注意深く、必要とされる厳格な衛生基準に従っていることを賞賛しました。そして彼らにとても感謝していると伝えました。

そこを出て、今度はレントゲン写真をもらうため歯科医院に寄りました。しばらく待たなくてはなりませんでしたが、それも主の取り計らいのようでした。受付に二人ほどおり、待合室には予約で来た人たちが数人いました。そこで私は主が導くまま、何人かに励ましの短い言葉をかけることができました。

一人につき一分か二分ほどの時間しかなくて深い証ができないとしても、主はあなたが人々を励まし、その霊を引き上げるために使うことができるちょっとした思いや質問をいつも与えてくれるものです。彼らに関心があることを示す言葉や何であれ言うべきだと感じたことを言うことは、彼らの1日を明るくし得ます。励ましは、それを受け取る人の霊をほとんどいつも引き上げるものです。

歯科医院を出ようとすると、以前何度か会ったことがあり、少し会話を交わしたことがある男の人を見かけました。私は熱意のこもった感じで「とても元気そうね、ジョー」と言いました。後で考えると、なぜ私はそんなことを言ったのでしょう? 主は言われました。「それは彼が一番聞く必要のある言葉だったからだよ。彼は老年期の危機にあって、今でも女性に興味を持たれるか知る必要があった。それが彼にとっては大切なことの一つだったから」と。

多くの場合、神のみが知る理由によって、こういった短い励ましや感謝や賞賛の言葉は私たちが考える以上に重要です。主がご自身の子どもたちへの愛を注ぎ出し、主の愛情深い心へ彼らをもう少し近づける助けとなる過程のもう一つ別の部分に過ぎません。

こうして私たちは家に戻りました。出る前より気分はずっと良くなり、不機嫌さは完全にどこかへ行ってしまいました。家を出る時、もっと良い態度を示していなかったことで、主に赦しを求めました。

主は、私たちに話しかけたりトラクトを渡したりして欲しい人、さらには少数のグループに対しても、ありとあらゆる手段を使って私たちの興味を引かせることがよくあります。私の場合は、車の中で目を閉じている時に、主はその女性を私のところにわざわざ連れてこられました。私たちには決まった予定があるかもしれません。でもそれよりも大事なことですが、私たちがそれをいとわないなら、主は大抵の場合、主ご自身の計画をお持ちです。

私が誰かにイエスの愛を表そうとするとき、それが一言や二言であっても、主の霊にエネルギーをもらう気がします。私は主の霊が、なんとかしてその人を主に近く引き寄せる助けになる言葉を、より力強いものにすることができると信じています。

主は主のメッセージが、むなしく主の元に戻ることがないと約束されました。主が語るように示されたことを私たちが分かち合うとき、それは現世で結果を見るかどうかにかかわらず、主が成し遂げたいと思われる結果をもたらすと私は信じます。もし私たちが主の声に忠実に耳を傾け、主が示されたことを喜んで行うならば、それは誰かのために夜を照らす導火線に点火する火花となり、その人が主への道を見出す助けとなるでしょう。

私たちは、このような証しの状況の結果をいずれ見ることになり、その時、きっとワクワクするでしょう。この人生でそれを裏付ける「証拠」がなくてもいいのです。結果を見なくても従ってきたのですから、その時が最も大きな祝福を受ける時なのです。目には見えないけれど、主の約束を信じることで、信仰が私たちを前進させてくれる時が何度もあるでしょう。

イエスは信仰の歩みが容易であるとは決しておっしゃいませんでした。私たちがこの地上にいる間に、私たちが主のために行うことの確証や実証を見ることができるとは言われませんでした。イエスは私たちが信仰によって一歩踏み出すこと、つまり、主が私たち一人一人の中で始められたことを最後まで成し遂げるよう信じることを望んでおられます。

神は、私たちが神の愛とメッセージを伝えるために、私たちにはどう見えようと関係なく、良い機会を与え続けてくださいます。私たちがたまたまそこにいるからではなく、私たちが神の慈しみの目で見て、神の知恵で理解し、神の愛から湧き出る動機で従うことを神が信頼できるからこそ、神は私たちを巻き込んでくださるのだと信じなければなりません。

だからこそ、神の霊で誰かの心に触れる機会があれば、それを捉えましょう。そうすればイエスは大いに喜んでくださるし、また私たちも、他の人たちがイエスのもとへ行くことを励ますために自分の役割を果たせるのです。

初版は2021年1月 2023年10月に改訂・再版 朗読:デブラ・リー

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