悲しみの中で喜ぶ

7月 3, 2024

In Sorrows Rejoicing
April 24, 2024

ウィリアム・B・マグラス

クリスチャンになって最初の数年間を振り返ってみると、神が私の人生に悲しみが入り込むのを許された理由が、今ならよく理解できます。宣教師になることを決意し、聖書を定期的に学び始めてはいたものの、学ぶべきことはまだたくさんありました。キリストにある私の人生がどうなるかという期待は、かなり考えが甘かったと言えます。

宣教師としての仕事に対して初期に抱いていた幾分壮大な期待は、部分的に、この世の文化の影響から受けたものだったのでしょう。それ以来、この世の文化が、いかにプライドや自己顕示欲を満たすものを求め、それを尊重すべきであると印象づけるかが、よく理解できるようになりました。奉仕、柔和さ、謙遜は長所とはみなされず、クールでもありません。それで私は、目に見える業績や、カリスマ的で魅力的な性格を身につけることに重点を置きすぎていたようです。私は、主のために注目されるような仕事、多くの人に賞賛されるような特別な仕事に参加する自分を思い描いていました。

深い心痛や失望を経験するかもしれないとは予想していなかったし、態度を改めることが切実に必要であるとも思っていませんでした。「自分の十字架を負うこと」と「自分を捨てること」(マタイ16:24)が何を意味するのか、よく理解していなかったのです。もうひとつ理解していなかったのは、自分の人生をキリストに捧げ、自分の意志をキリストに委ねることで、私もキリストが経験された悲しみにあずかることになるということでした(1ペテロ4:13)。しかし、前向きに考えれば、私は地上で失ったものはあるけれど、「高価な真珠」(マタイ13:45–46)、すなわち、永遠の報いを伴う「御子のかたちに似たもの」(ローマ8:29; 2コリント3:18)に造り変えられていく特権という、かけがえのない贈り物を与えられていることは感じていたようです。

もうひとつ、私があまりよく理解していなかったこと、そして今も学んでいることは、「主を待ち望む」ことを学ぶという聖書の実践です。ナオミはルツに言いました。「娘よ、この事がどうなるかわかるまでお待ちなさい」(ルツ3:18)。私の習慣はいつも、できる限り早く、たとえ少々急いででも、自分ひとりで、できる限りの「修正」をすることでした。それ以来、神は、私の人生に起こるのを許された状況に対する私の反応に関心を持たれていることを知りました。私が不平を言うのか、それとも神を信頼し、神のご計画がしばしば私と同じではないことを受け入れるのか、ということをです。

エリザベス・エリオットのこの言葉がそれをよく表しています。

人生で、私が前に進みたいと思う時も、神は何度も待つように言われました。光を求めた時、神は私を暗闇に閉じ込められました。導きを求める懇願に対して、神の答えはしばしば「娘よ、じっとしていなさい」でした。私は進歩を見たいのです。神が少なくとも何かをしているという証拠を探しているのです。… 当然のこと、私たちの多くにとって、この待つという試練は、静かで誰もいない家で行われるのではなく、通常の仕事、約束ごと、食料品の買い出し、車の修理をしながらの過程で行われます。… 主を待ち望むことは、同時に、主に喜びを見いだし、すべてを主に委ね、主を信頼し、静まることを学ばなければ、ほとんど不可能なのです。… 真の待ち方とは、何もしないことではありません。… 私たちの多くにとって、従うことが最も難しいと感じる霊的生活の訓練とは、待つことです。この訓練ほど、私たちの信仰の質を露呈するものはありません。[1]

私たちには皆、完成を待ち望んでいるプロジェクトや物事があり、しばしばその達成が保留にされます。しかし、待っている間、私は主の良き時に答えが来るという信頼と期待を培うことを学びたいです。詩篇31:19は、神を恐れ、神に寄り頼む者のために、神は大いなる恵みを蓄えておられると約束しています。イザヤ64:4と1コリント2:9は、まるで一組の手袋のように相性が良い2つの約束です。どちらも、神は私たちが見たことも聞いたこともない素晴らしいものを私たちのために用意しておられると告げています。イザヤ書では主を待ち望む者のために、第1コリント書では主を愛する者のために。

私の人生には、前もって思い描くこともできなかったし、思い描くべきでもなかった悲しみがいくつかありました。すべての悲しみを通して、私は「勇気を出しなさい」(ヨハネ16:33)というイエスの教えを守り、またパウロの次の手本を心に留めたいと熱望しています。「しかし、これらのことは、何一つ私を動揺させない」(使徒20:24 英語NKJV訳)、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。パウロはなぜそんなことが言えたのでしょう。彼は主のいつくしみを経験したに違いありません(詩篇63:3; 17:7; 36:7)。

聖書は、イエスは苦しみを通して従順を学ばれたと教えています(ヘブル5:8)。ですから当然のこと、私たちもまた、従順を学ぶためには苦しみを耐え忍ぶべきであり、イエスが受けられたような受け方で苦しみを受けるように努めるべきであって、それによって私たちも最後に祝福を受けることができるのです。

私たち一人一人は、苦しみ、苦悩、悲嘆を通り抜けることが許されています。そして、私たちがそれを通り抜ける時、神が私たちとともにいて、私たちのことを思いやってくださると確信できるのです(ヘブル4:15)。それに対して、私たちはそのような苦難を主に捧げるのであり、主がされたように私たちも悲しみを乗り越え、最後には勝利できるよう恵みを与えてくださると、全力で信じ続けます。

希少な宝石は、最も厳しい研磨に耐えます。私たちは神ご自身の作品なのです。[2]

この世はそう信じさせようとしますが、キリスト教は弱い者のためのものではありません。謙虚になる勇気を見出す人のためのものなのです。私たちが通らなければならないのは、小さな扉です。… 小さな扉が開くと、そこにはとても大きな場所が開かれます。[3]


1 Elisabeth Elliot, A Lamp Unto My Feet, Day 24, 1985.

2 Elisabeth Elliot, The Path of Loneliness, 1991.

3 Elliot, Path of Loneliness.

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