6月 27, 2024
よく知らない人は、キリスト教は、父と子と聖霊という三つの神を信じているという印象を抱くかもしれませんが、そうではありません。クリスチャンは、唯一の神を信じています。父、子、聖霊が一つの神であるという概念を説明する教義は、三位一体の教義と呼ばれています。
この教義では、神は一つの実体の内に常に三つの位格(自立存在)として存在してきたとします。これは人間とは非常に異なります。私たちは一つの実体の内にある一つの人格として存在しており、一つの人格しかないからです。神は、三つの位格をもった存在であり、父、子、聖霊という三つの位格がそれぞれ固有のものでありながら、なおかつ、一つの存在なのです。神には三つの位格があるものの、それぞれが完全なる神性、また、神のすべての属性や特質を有しています。
人間である私たちの経験からすると、人が存在するということは、独特で別個な実体があるということです。私たちの知っている人は皆、独特で別個な存在であり、人間性にも個性があります。しかし、神においては、それぞれ別個の存在がお互いから切り離されてともにいるのではありません。三つの個々の特質を合わせ持つ、一つの神なる存在であり、一つの実体であるのです。
旧約聖書では、一つの神の中の三つの位格という概念は、明確に語られてはいないものの、神の内に複数の位格があることを暗示する節はあります。一つの神の内に三つの位格があるということは、イエスの生と死、よみがえり、また、信者に聖霊が注がれたことのゆえに、新約聖書においてより明確になりました。イエスの信者は、彼が神でありながら、父とは異なっており、聖霊も神でありながら、父や子とは異なっているということを理解するようになりました。というわけで、三位一体の真理が明らかにされたのは新約聖書の時代です。
旧約聖書は、神が三つの位格をもった存在であることを明らかにしてはいないものの、神が単に一つの位格ではないことを暗示する聖句はあります。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り…。』」(創世記1:26) 「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。』」(創世記3:22)(こちらも参照: 創世記11:7; イザヤ6:8)
次に挙げる幾つかの節も旧約聖書からですが、語り手は父なる神か、子なる神であり、お互いのことや御霊のことを語っており、それは異なる位格があることを暗示しています。「天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、風をこぶしの中に集めたのはだれか、水を着物に包んだのはだれか、地のすべての限界を定めた者はだれか、その名は何か、その子の名は何か、あなたは確かにそれを知っている。」(箴言30:4) 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね…。」(イザヤ61:1)
旧約聖書に記されている大切な聖句の一つで、ユダヤ教にとって極めて重要な節は、次のものです。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4) ユダヤ教は、神は唯一であると信じる唯一神教です。この信条は、旧約聖書の時代ではだいたいにおいてイスラエル独特のものでした。キリストの時代に至るまでは歴史を通して、イスラエルの隣国も含めて、その地域の文化はすべて多神教だったのです。
キリスト教も唯一神教です。クリスチャンは、神は唯一であると信じ、上記の「われわれの神、主は唯一の主である」という同じ節を信じています。しかし、ユダヤ教と違って、クリスチャンは、三つの位格をもった神、つまり一つの存在に三つの位格があることを信じます。
初期キリスト教会において、この教義は次第に発展し、その意味が明確に説明されていきました。「三位一体」という言葉は聖書には出てこないものの、その教義は聖書によって明らかにされており、その概念を表す言葉が「三位一体」なのです。
アウグスティヌス(354–430年)は、ローマ帝国西方のキリスト教界における指折りの重要人物の一人であり、また、使徒パウロに次ぐ偉大なクリスチャン著述家であるとみなされています。そのアウグスティヌスは、7つの短い陳述文で三位一体の基礎論理をまとめました。それは次の通りです。
最初の3つは三位一体のそれぞれの位格は神であると述べており、その次の3つは三位一体のそれぞれの位格が互いとは異なっていると断言しています。そして最後に、神が唯一神であることを明言しています。
このすべてを完全に理解するのは難しいかもしれませんが、アウグスティヌスの7つの基礎的な陳述文から考えを組み立ててみれば、聖書は、三つの異なる位格が一つの神として存在するという三位一体について述べていることが明白です。
父は神である。以下にあげる聖句には、父が神であることが述べられています。「主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。」(イザヤ63:16) 「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」(マタイ6:9) 「イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(2ペテロ1:17)
ヨハネ17章はイエスが父に祈る祈りであり、イエスが父を神として捉えておられたことを示しています。
子は神である。以下にあげる聖句には、イエスが神であることが述べられています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」(ヨハネ1:1-3) 「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており」(コロサイ2:9) 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:18)
聖霊は神である。詩篇139篇は、聖霊(みたま)が遍在することを表しており、それは神のみが有する特性です。「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。」(詩篇139:7–8)
第1コリント2章は、聖霊が全知である、つまりすべてを知っておられることを表しており、それは、神のみが有する特性の一つです。「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」(1コリント2:10–11)
この次の節は、聖霊がこの世の創造の前から存在し、何らかの役割を果たされていたことを示しています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2 新共同訳)
以下の2つの節は、聖霊が、クリスチャンである私たちの人生においてイエスと共に働かれることを示しています。「あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」(1コリント6:11)
第2コリントでは、パウロが、三位一体の三つの位格を挙げ、その三つがそれぞれ他とは異なっていることを示しています。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(2コリント13:13)
イエスは天に昇る直前に、三位一体の一つ一つの位格の名前によってバプテスマを授けるよう弟子たちに命じられます。これは、イエスがその三つはすべて相等しく、すべて神であると見ておられたことを示しています。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し…。」(マタイ28:19)
新約聖書の著者たちの、父、子、聖霊についての書き方を見ると、その三者はそれぞれ他とは違っていることがわかります。三つの位格は互いに異なっており、また、同じ位格ではないことがわかるような形で互いと語り合っています。例えば、イエスは父に聖霊を送って下さいと求められました。これは、三つの異なる位格が互いとやり取りしていることを示します。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16–17)(こちらも参照: マタイ11:27; マタイ3:16–17) これらの節は、父、子、聖霊が互いとは異なっていることを示しています。
イエスご自身が言われたことも含め、新約・旧約聖書の両方が、神は唯一であることを明言しています。(マルコ12:28-29; イザヤ45:5) アウグスティヌスの陳述文は聖書に基づいており、神が父、子、聖霊という三つの位格からなり、その三つは互いに異なり、かつ、神は唯一であることを明らかにしています。
実際、父、子、聖霊が一つの神であるという概念は、私たち人間にとって完全に理解するのは不可能です。私たちの世界にはそのような存在がなく、私たちの経験を完全に超えているからです。そのことで少し当惑するかもしれませんが、それは、全知全能の創造主である神が存在するという私たちの信条と一致しています。神がご自身を私たちにあらわされるにつれ、神の幾つかの面が、私たち人間の経験や理解をはるかに超えたものであることは理にかなっています。ですから、完全に理解できないと感じても、心配しないことです。大切なのは、唯一の神が存在し、神の内に三つの位格があり、神はあなたのことを愛しておられ、イエスはあなたの救いのために死なれ、聖霊は助け手、助言者としてあなたと共におられると知っていることです。
使徒や弟子は全員ユダヤ人で、生まれてこのかた、神は唯一であると信じ、それと反対のことを信じるのは彼らにとって冒涜でした。その彼らが、特にイエスのよみがえりの後、自分たちが知り、共に暮らしていた人であるイエスが、実は神であることを理解するに至ったのです。彼らは、イエスは父なる神ではないものの、それでも神であることを知りました。イエスが昇天し、五旬節(ペンテコステ)において約束されていた聖霊が力強く彼らの人生にあらわれてくると、この同じ人たちは、聖霊も神であることを理解するようになり、それでいて、聖霊は父でも子でもないことを知ったのでした。
新約聖書の著者たちは、唯一の神、そして、神の内にある異なる位格のことを理解し、受け入れ、そのように書きました。初代教会はそれを信じ、今日のクリスチャンもそれを信じています。これは、私たちの信仰の核心となるものです。
初版は2011年5月 2023年11月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク
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