6月 19, 2024
イエスを知り、イエスを愛する私たちにとって、この人生の経験のすべては、ちょうど大いなる学校教育のようなものです。主は私たちの教師であって、私たち一人ひとりに対して、主や主の愛、救い、奉仕について教え、信仰と御言葉の内に成長し、主と同じ姿に変えられていくのを助けたいと望んでおられるのです。(2コリント3:18)
神から離れて、自分だけの力で、御心を成し遂げることのできる者など、一人としていないことを、神は知っておられます。それどころか、イエスは、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と言われました。(ヨハネ15:5) でも、聖書には、私たちはキリストによって「何事でもすることができる」とも書いてあります。(ピリピ4:13) もし、私たちが心と人生を主に委ね、神が望んでおられる者に、つまりあるがままの自分ではなく、神がなってほしいと思われる通りの人間に喜んでなりたいという気持ちがあるなら、その時、神は私たちをご自身の栄光のために使うことができるのです。
無論、人生において主を最優先し、委ねるということは、私たちが一晩で学べることではありません。それには時間がかかり、砕かれる過程を要するのです。また、私たちを主の近くに引き寄せるような教訓や経験が必要です。
神によって使われることができるようになる前に、神によって身を低められなければならなかった聖書の中の人物、つまり、大いに使われる前に神が深みに引き降ろさなければならなかったリーダーは、数え上げたらきりがないほどです。神がそうされなかったなら、彼らは自分で事を成し遂げたのだと考え、神に栄光を帰さなかったことでしょう。
例えば、ヨセフの人生を考えてみて下さい。彼は、ヤコブの12人の息子の中でも、父の一番のお気に入りの子でした。ヨセフの兄たちはついに彼をひどく妬んで、殺そうとするほどになり、ヨセフを穴の中に投げ込んだ上、奴隷として売りとばしてしまったのです。しかし、それこそ、ヨセフを謙虚な者にして、神の目的を果たすために主が使われたことだったのです。神によって高められ、飢饉の時に主の民の救済者となることができる前に、ヨセフはまず奴隷となり、囚人となり、犯罪人としてのとがめを受けなければならなかったのです。(創世記37–41章)
モーセの例もあります。彼は40年もの間、他ならぬパロの王宮で教育を受け、強大な古代エジプト帝国の全土においてパロに次ぐ有力者にまでなったのです。聖書には、モーセが、「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」たとありますが(使徒行伝7:22)、神はまだ、その民を解放するために彼を使うことはできませんでした。モーセは神のやり方ではなく、この世のやり方でいっぱいだったからです。モーセはまず砕かれなければなりませんでした。そこで、神は彼がパロから逃亡する身となるのを許され、その結果、モーセは羊の世話をしながら、40年間を荒野で過ごさなければなりませんでした。そしてとうとうモーセが謙遜さを備えた人間になった時、神は、モーセのために計画しておられた大きな任務にモーセを使うことができたのです。(参照:出エジプト記2–3章)
そして、イスラエルが生んだ最も偉大な王、ダビデ王のことを考えてみて下さい。バテシバに恋をしたダビデは、意図的にその夫が戦場で殺されるように仕向け、それから嘘をついて、その犯罪を隠ぺいしようとしたので、神は彼の罪を暴露し、その高慢な鼻をへし折り、厳しい罰を与えなくてはなりませんでした。そしてしばらくして、ダビデは裏切り者となった自分の息子、アブサロムによって王座を追われてしまったのです。(参照:サムエル記下11、12、15章)
でも、ダビデの失墜は下向きだったのでしょうか、それとも、上向きだったのでしょうか。神の上への道は、下に向かうものであることがあります。しかも、しばしばそうなのです。ダビデは低められ、全王国も低められて、彼らを偉大なものにされたのはただ主だけだったということを、皆が改めて思い知ったのでした。ダビデの人生の苦難と挫折から、甘い蜂蜜のような詩篇と、主の憐れみを感謝するかぐわしい賛美の芳香が生じたのです。
勇敢で、力強い預言者エリヤは、バアルの偽預言者たちを辱め、神の力を示すために、天から火を呼び下ろすことができました。(列王紀上18章) けれども、その後エリヤは恐ろしくなり、たった一人の女、あの邪悪な女王イゼベルから逃げ出してしまったのです。荒野に隠れたエリヤはひどく落胆し、死ぬことを願ったほどでした。しかし、その絶望の淵にあって、この火と雷の預言者は、神の静かで、小さな声に耳を傾けることを学び、柔和な人になったのです。(列王紀上19:11–12) そして、主の御手によって使われる、はるかに優れた、より謙虚な器となり、女王だけではなく、王やすべての兵士をも恐れぬ預言者に舞い戻ったのです。
使徒ペテロも、神が砕くことで造られたもう一つの例です。彼はイエスに、「たとえ他のすべての者があなたを見捨てても、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です」と誓いました。(ルカ22:33) しかし、そのほんの数時間後、イエスが宮の番兵たちに捕らえられ、ユダヤの宗教裁判所に引き出された時、建物の外にいた何人かの人がペテロに気づき、彼はイエスの友人だと言いました。するとペテロは、イエスを知っていることさえ強い口調で否定し、呪いの言葉さえ口にしながら、いったい彼らが何のことを言っているのかわからないと誓ったほどでした。(マルコ14:66–71)
ペテロが三度目にイエスを知らないと言った時、ご自分を捕らえた者たちによって建物の別の場所に連れて行かれようとしていたイエスが、振り向いてペテロを見つめられました。その時、ペテロは、自分が決して主を知らないなどとは言わないと誓ったことを思い出したのでした。ペテロはそれから「外へ出て、激しく泣いた」と、聖書には書いてあります。(ルカ22:62) これは、主のためのペテロの奉仕の終わりだったのでしょうか。そうではありません。主がペテロを初代教会のリーダーとされたのは、この屈辱的な敗北、この大失敗の後、間もなくしてのことだったのです。
あるいは、偉大なる使徒パウロのことを考えてみて下さい。彼は熱心なユダヤ教徒でパリサイ人でした。そして、急速に広まっている、ナザレのイエスの信奉者たちからなる新興宗教にとどめを刺すことを自分の使命としていたのです。手当たり次第、できるだけ多くのクリスチャンを捕らえて、獄に入れ、処刑しようと、馬にまたがってダマスコに向かっていた彼を、神は馬からたたき落とし、神の臨在を示すまばゆい光をもって彼の目を見えなくしなければならなかったのです。彼は無力にされ、盲目にされて恐れおののき、町まで手を引いて連れて行ってもらわなければなりませんでした。そしてショックのあまり三日の間、食べることも飲むこともできませんでした。その時、主の弟子の一人がやって来て、パウロに神からのメッセージを伝え、その目のために祈ってやると、サウロは改宗して、偉大なる使徒パウロとなったのでした。しかし、神によって使われることができるようになる前には、彼もまた神によって身を低められ、砕かれて、新しい人にされなければならなかったのです。(使徒行伝9章)
というわけで、自分がどうして試練や苦難や砕きを経験しているのか、いつも理解できなくても、神はご自分が何をしておられるのか知っておられるということを、忘れないで下さい。神は、私たちが直面するそれぞれの試みや試練や悩みの背後にある目的、理由をすべてご存知なのです。主は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と約束しておられます。(ローマ8:28 新共同訳) 神は、神の子どもあるあなたには、何らかの形であなたの益となること以外に何一つ起こるのを許されません。勿論、私たちはしばしば、あまり好ましく思えない事がたくさん起こると感じるものです。でも、遅かれ早かれ(この人生であろうが来世であろうが)、それがあなたにとって良いものだったことがわかるようになるのです。
神は、敗北のように見えるものから、最大の勝利を収められることがあるということを、あなたは悟るでしょう。それは主に対する服従、砕けた心、謙虚さ、そして主に完全に頼るという勝利です。そうしたものは、もし、あなたが何でも神の望まれる者になるつもりでいるならば、絶対に欠かせないものなのです。だから、こういった聖書の手本によって元気づけられ、たとえ物事がうまくいかず、希望が失望に終わっても、落胆してはいけません。
何かのことでかつて主に使われたことのある人はすべて、まず初めに、砕かれ、低められ、事実上、自分ではできないと悟るまでに至らなければなりませんでした。そうでなかったら、自分の才能や生まれつきの能力に自信を持ち過ぎてしまい、神が彼らを使われようものなら、栄光を自分のものにしてしまいそうになることでしょう。主が弱いもの、愚かなものを選んで使われるのはこのためです。つまり、「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」なのです。(1コリント1:25–29)
神は必ずしも私たちと同じようなものの見方をされるわけではありません。主の思いは私たちの思いとは異なり、主の道は私たちの道とは異なっているからです。(イザヤ55:8,9) そして、主は私たちの成功や失敗によってではなく、私たちの忠実さによって、私たちを裁いたり、報いたりされるのです。主は、いつか天国で、主に対して忠実であった者たちに、「良い忠実な僕よ、よくやった」と言われるでしょう。(マタイ25:21) 「しくじった僕」とか「成功した僕」とかではなく、「忠実な僕」と言われるのです。
だから、何よりもイエスに忠実でありなさい。そして、先ほどの聖書の登場人物たちがしたように、もしあなたが自らを低くして、主が教えようとしておられる教訓を学ぶならば、あなたには敗北と見えるものも、主のための勝利となることがあるのを忘れないで下さい。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11 新改訳2017)
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2023年8月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
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