律法と預言者(パート1)

6月 21, 2024

The Law and the Prophets—Part 1
April 15, 2024

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 11:01
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イエスは山上の説教で、その多くの時間を「律法と預言者」つまりキリスト教では旧約聖書と呼ばれているヘブル(ヘブライ)語聖書について話すために割かれました。

ヘブル語聖書は、通常ユダヤ教徒にはタナハとして知られています。キリスト教の旧約聖書と同じ書が収められているものの、区分と順序は少し違います。イエスが「律法と(や)預言者」と言われている箇所は、一般的にヘブル語聖書(旧約聖書)のすべての書のことを簡潔に言い表すものとして理解されています。

山上の説教で、イエスは聖書に対する新たな見解や理解、またご自身と聖書との関係について話をされます。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々[パリサイ人]の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ 5:17–20 新共同訳)

イエスが律法や預言者を廃止する(他の訳では廃する、廃棄する)ためにきたと思ってはならないという言葉で話を始められたということは、実際にそう思っている人や考えている人がいたということになります。律法に対するイエスの捉え方が伝統的な考えとは違っていたためです。[1] しかしイエスは、律法や預言者を廃止したり廃棄したりするためではなく、完成(成就)するために来たのだと明言されました。

続けて、権威のこもった「はっきり[よく、まことに]言っておく」という言い方で、天地が消えうせるまでは、律法の一点一画も消え去る(すたれる)ことはないと告げられました。律法よりも先に天地(被造物全体)が消えうせるというイエスの言葉を聞いた人たちは、それは神の言葉が成就されないことは決してないという意味だと取ったことでしょう。ことごとく実現するのです。

イエスが律法と預言者、つまりヘブル語聖書全体を成就するために来られたというのは、どういう意味なのでしょうか。その答えは、イエスが旧約聖書の言葉を成就しておられたことについて、マタイが自分の福音書で幾度も説明しているとおりです。いくつかの例をあげます。

これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。」(マタイ 12:17–18)

こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って。」(マタイ 21:4–5)

イエスによれば、旧約聖書の役割が廃止されたのではなく、ただ変わったのです。それが指し示していたメシアがすでに来られたので、いまや旧約聖書はイエスの教えに照らし合わせて理解され、実践されなければいけないということです。

マタイ5:21–48に出てきますが、イエスが「… と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う」とおっしゃった時、トーラー(律法)の教えをより深く理解する実例をあげておられました。それ以降は、イエスによる権威ある教えが、弟子たちの律法に対する理解や実践を決定するものとなりました。もはや規則をただ字句どおりに守るのではなく、その規則を支える道徳原則をより深く理解するようになったのです。

山上の説教で、イエスは律法の表面的適用を越えた基準を定め、一連の規則ではなく、心からの反応を大切にしておられます。字句どおりに従うだけでは不十分であることを示しておられるのです。それが律法学者やパリサイ人(ファリサイ派)による律法の守り方でしたが、イエスはこのように語られました。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ 5:20 新共同訳)

イエスの時代の律法学者とは、モーセの律法を教え、説明し、解釈することを仕事としていた人たちのことです。律法学者とパリサイ人はトーラー(律法)を守ることについて、細かいことにこだわりました。もし字句どおりに律法を守ることが義であるとされるならば、律法学者やパリサイ人ほど義である人は他にいません。彼ら以上に律法を守ろうとすることは、事実上不可能でした。しかしイエスが語っておられた義は、字句どおりに律法を守ることではなかったのです。

イエスは続けて言われました。「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(マタイ 5:19 新共同訳) イエスが天の国[口語訳では天国と訳されています]の話をされるとき、それは「バシレイア」つまり私たちの人生における神の統治のことを語っておられるのであり、死後に行く天国のことではないのだと覚えておくといいでしょう。天の国で大きいとか小さいとかいうのは、死後の地位のことではありません。その人が、神を王として生きる者として、良い手本かお粗末な手本かということです。

イエスは「律法と預言者」を成就することにより、人類の新たな時代の到来を告げておられたのであり、それは律法の文字を守る(字句どおりに守る)ことを超えて、律法の根底にある原理を見極めて適用するという時代です。この新しい律法の適用の仕方によって、律法はもはや一連の行為規則としてではなく、「よりまさった義」への指針としての役割を果たすものとなりました。この適用の仕方はイエスが生み出されたものであり、昔ながらの律法の守り方にとって代わるものでした。[2]

イエスは旧約聖書を廃止されはしませんでした。それはイエスを指し示すものであり、またイエスは成就されたものなのですから、廃止することなどありえましょうか。マタイ5章にあるこれ以降の節に見られるように、イエスは、律法を厳格に守ることで義がもたらされるという概念を超えて、律法の背後にある原則のより深い理解と適用の仕方を伝えられました。そうすることで、イエスは至福の教えと合致する霊の態度を示しておられたのであり、それこそが律法学者やパリサイ人にまさる義をもたらすものなのです。

イエスは山上の説教で6つの例をあげられました。それらの例は、聖書で「言われていたこと」と、その聖句がご自身に従う者たちにとってどういう意味を持つのかについての、より完全でさらに進んだ形の説明との間の対比という形で話されています。イエスはその教えを説かれるときに、「… と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う」という表現を用いておられます。

ひとつ目の例では、「昔の人々に … と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」と言い、次の5つの例のうち4つでは短くされた言い方をしておられますが、意味は同じです。イエスが言わんとされていたのは、律法がたとえば「殺してはならない」と告げていたとすると、その言葉のより幅広い意味を説明しようということでした。イエスがあげられた6つの例は、モーセの律法の一節またはひとつのテーマをもとにしています。その6つの例は、殺人、姦淫、離縁、誓い、報復刑、そして隣人を愛することです。それぞれの点について話しながら、イエスはご自身の教えを実践することに関して、一般原則を与えておられました。

第一の原則は、大切なのは律法の霊(精神)であって、文字(書かれていること)がすべてではないということです。たとえば、「あなたは殺してはならない」(出エジプト 20:13)という戒めについて、イエスは殺人という外面的な行動以上のものを見ておられます。イエスは、私たちの行動の内面的核、つまり態度や動機、思考、意図について話されています。神は、行動自体とともに、その行動を引き起こす内面の源にも関心を持っておられます。律法の意図することを果たすというのは、殺人をしないでいるだけではなく、他の人を侮辱し憎むこともせず、ポジティブで愛情深い態度を示すことでもあるのです。

イエスが持ち出されたもう一つの原則は、律法とは、「するな」「してはならない」ばかりが続く、すべきでないことのリストと考えられるべきではない、ということです。むしろ、神を喜ばせ、神に栄光を与えるような生き方をすることに焦点を合わせるべきです。イエスが与えてくださった新しい見方と理解の仕方によって、私たちは「これやあれをしてはならない」と定められた規則にただ従うことからさらに進んで、イエスの教えに示されたように、律法を支える原則に従って生きるようになるべきです。

真の目標とは、神との関係を持ち、神の栄光のために生きることです。一連の規則に機械的に従うかどうかではなく、キリストに似たものとなっているかどうか、精神生活がイエスの教えられたことと一致しているかどうかなのです。人を殺したことはなくても、心と思いが怒りや侮辱で満たされたことはあるでしょうか。もしそうなら、罪を犯していることになります。

イエスは、弟子たちが律法を守ることからさらに進んで、もともとの律法の背後にある原則をより深く理解するのを助けられました。イエスは新しい神の民を生み出しておられました。神の国、つまり神の統治のもとで生きる者たち、一連の規則を守ることに義を見出すという考え方からさらに進んで、神の律法の霊と意図に合致した生き方をすることを大切にする者たちです。

初版は2015年10月 2024年4月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 John R. W. Stott, The Message of the Sermon on the Mount (Downers Grove: InterVarsity Press, 1978), 70. Darrell L. Bock, Jesus According to Scripture (Grand Rapids: Baker Academic, 2002), 131.

2 R. T. France, The Gospel of Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), 186.

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