6月 13, 2024
ある人たちは、人は全て善人か悪人かのどちらかだと考えているようです。しかし実際のところ、私たちの義に関して言えば、善人など存在しません。皆不十分なのです。全てが悪いという人もいないし、キリストの血を信じる信仰による他には、完全に汚れなく潔白だという人もいません。イエスだけが完全で、私たちを助けることができるのであり、主が来られたのはそのためだったのです。
十分に良い人などいません。私たちは皆、過ちを免れず、間違いや罪を犯すのであり、私たちが救われているのは、ただ神の恵みによります。神の愛と憐れみと恵み、そしてゴルゴダでの犠牲だけが、私たちを救うのです。他には何もありません。それだけです。
神に感謝することに、救いは、私たちが過去にどれだけ善良だったか、あるいは今現在どれだけ善良なのかには左右されません。救いはただ、イエス・キリストの憐れみと恵みを信じる信仰にかかっているのです。私たちの全ての罪や欠点、失敗、過ち、 聖人らしからぬ有様にもかかわらず、神は私たちを愛し、赦してくださいます。「主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。… 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」(詩篇103:10,12)。—デービッド・ブラント・バーグ
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「赦す」という言葉には、白紙に戻す、赦免する、借金を帳消しにするという意味があります。誰かに対して過ちを犯したとき、私たちは関係を修復するために相手の赦しを求めます。赦しが与えられるのは、その人が赦しを受けて当然だからではありません。誰も赦されるに値する人はいません。赦しとは、愛と憐れみと恵みの行為です。赦しとは、相手があなたに何をしたかにかかわらず、相手に対して恨みを抱かないという決断です。
聖書は、私たちは皆、神からの赦しを必要としていると教えています。… あなたは罪を赦してほしいですか? つきまとう罪悪感を捨て去ることができないように思えるのですか? イエス・キリストを救い主として信じるなら、あなたの罪は赦されます。… ヨハネ3:16–17に、このような素晴らしいメッセージがあります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」。
赦しとは、本当にそんなにも簡単なのでしょうか。そうです、そんなにも簡単なことなのです。努力によって神から赦しを得ることはできません。神から赦しを買うこともできません。ただ神の恵みと憐れみによって、信仰によって、赦しを受けとることができるのです。—GotQuestions.org [1]
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罪との闘いの中で、自分の救いに疑問を抱くクリスチャンを思い浮かべてください。そのような時、彼らは容易に内面に目を向けます。「私は神に喜んでいただくために十分なことをしただろうか?」、「教会でもっと奉仕すれば、神に受け入れていただけるかもしれない」、「神に受け入れていただくには、罪を犯すのをやめなければならない」などと。彼らはこれらの言葉を口に出さないかもしれません。結局、誰からも、信仰が弱い人間だと思われたくないし、さらに悪いことに不信仰者だとは思われたくありませんから。しかし、内側に向かおうとする直感的な反応は、より深いところに内在する問題を明らかにしています。彼らは福音の客観的な現実へと、外側に目を向けなければなりません。彼らの義であるキリスト・イエスを信頼しなければなりません(1コリント1:30)。彼らは思いと口においてだけでなく、心と人生において休息する必要があります。「最も確かな慰めの言葉、全ての悲しみを和らげる言葉、赦しの言葉、平安の言葉、救いの言葉、…『イエスは罪びとを受け入れてくださる』という言葉の内に安らぐ必要が」。[2] —デービッド・ブリオネス [3]
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イエスは言われました。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。イエス・キリストが私たちに代わって十字架上で犠牲の死を遂げられたおかげで、神は私たちに赦しを惜しみなく与えてくださるのです。…
天国での場所を獲得させてくれる、正しい行いなどありません(テトス3:5)。私たちは手ぶらでキリストのもとに来ます。救いの手柄を得ることはできません。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8–9)。この賜物は、働いたり努力したりして得ることも、勝ち取ることもできません。ただ、私たちに代わってキリストが払ってくださった惜しみない犠牲ゆえなのです。…
あなたはある方と、ある場所のために造られました。イエスがその方であり、天国がその場所です。それらは一緒に、一つのパッケージになっています。イエスなしに天国に行くことはできないし、天国なしにイエスを得ることもできません。「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ55:6)。あなたはそうして良かったと、永遠に喜ぶでしょう。
神があなたに赦しと永遠の命を可能にするためにしてくださったことを理解するなら、それを次のような言葉で表わしたいかもしれません。 「親愛なる主よ、私はあなたの完全な基準に達していないと告白します。イエスを遣わしてくださってありがとうございます。イエスは私の罪のために死なれました。私は今、イエスを救い主として信頼します。あなたの赦しと永遠の命の賜物に感謝します」。—ランディ・アルコーン [4]
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わたしは永遠の愛であなたを愛してきた。時が始まる前から、わたしはあなたを知っていた。何年もの間、あなたは無意味さの海の中を泳ぎまわり、愛を探し、愛を望んでいた。その間ずっと、わたしはあなたを追い求め、憐れみ深いわたしの腕の中で抱きしめたくてうずうずしていた。
適切な時が来て、わたしはあなたにわたし自身の姿を現した。あなたを絶望の海から引き上げ、しっかりとした土台に据えた。時々、あなたは裸で、わたしの臨在の光にさらされていると感じた。わたしはあなたにアーミンローブをまとわせた。わたしの義の衣である。わたしはあなたに愛の歌を歌った。その始まりと終わりは永遠のベールに包まれている。わたしはあなたの思いに意味を、あなたの心に調和を注ぎ込んだ。
わたしにあって、あなたには全てがある。あなたの救いと霊的成長に必要なものは全て、わたしのうちにあるのだ。わたしの神聖な力によって、あなたは、わたしが与えた永遠の命を忍耐強く生き抜くために必要な全てが備わっている。わたしはまた、わたしについての親密な知識を与える。わたしはあなたが心を開き、最も深いレベルで、葛藤も喜びも、わたしと分かち合うよう招いている。
十字架上で完成したわたしのわざに安息を見いだし、わたしのうちに永遠に安全であることを喜びなさい。愛に満ちた救い主であり、永遠の友であるわたしを知ることで、豊かな魂の満足を味わいなさい。—イエス [5]
2024年4月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:ジョン・リッスン
2 Trinity Hymnal #394, “Jesus Sinners Doth Receive.”
5 Sarah Young, Jesus Calling (Thomas Nelson, 2010); Jesus Always (Thomas Nelson, 2017).
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