6月 1, 2024
神の愛は変わることがありません。神は私たちのことを正確にご存知で、それでも私たちを愛してくださいます。事実、神が私たちを創造されたのは、愛を注ぐことができ、そのお返しにご自分を愛してくれる、ご自分に似た他の被造物が欲しかったからなのです。神はまた、その愛が強制されたものではなく自発的なものであるよう望まれたので、私たちに選択の自由、つまり神との関係においてイエスともノーとも言える能力をお与えになりました。神は、機械化された愛、つまり親が要求するから、あるいは教会が説いているから神を愛すべきだというような愛は望んでおられません。神の心を満たせるのは自発的な愛だけです。…
神は愛の神であり、人間の苦境が見えない方ではありません。山頂に立って、大声で警告することもなしに私たちの人生の破滅を眺めているのではありません。人間は創造主に対する反抗によって自ら墜落を引き起こしたので、神は人間が破滅に陥るままにさせることもできたはずです。
人間の旅路の最初から、神は人間を救い出すための計画を持っておられました。実際、それはとても素晴らしい計画で、最終的に神の計画を受け入れる一人一人の人間を、天使たちよりもはるかに高く引き上げるというものです。人類に対する神の燃え尽くすような愛は、十字架において決定的に示され、神の憐れみ(英語でコンパッション)が御子イエス・キリストにおいて具現化されました。コンパッションという言葉は、「共に苦しむ」という意味のラテン語の2つの単語に由来しています。
神は人間と共に苦しむことをいとわれませんでした。イエスは、地上での33年間、人間と共に苦しみ、十字架上では、人間のために苦しまれたのです。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ … たのである」(2コリント5:19)。そして、次に挙げるのは、暗記すべき重要な聖句です。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)。
神の愛は十字架で始まったのではありません。それは、世界が確立される前、文明の時計が動き始める前の、永遠の時の内に始まりました。この概念は、私たちにとってかなり理解しづらいものです。
地球が「形なく、むなし」かったとき、神が何を計画しておられたか、想像できますか? 神の御座の輝きの前には、広大な溝を形成する宇宙空間の深く静かな闇があるのみでした。神は、山や海、花や動物を設計しておられました。神はご自分の子どもたちの体と、その複雑な部分のすべてを計画されていたのです。創造が偶然などというわけがありません。
最初の夜明けの前から、神はこれから起こるすべてをご存知でした。その神秘的な愛において、神はそれを許されたのです。聖書は、「天地創造の時から、屠られた小羊」について告げています(黙示録13:8 新共同訳)。神は御子が苦しむことを予見しておられました。カルバリに十字架が建てられるずっと前から、神の心には十字架があったと言われています。そのことを考えると、私たちに対する神の愛のすばらしさと偉大さに圧倒されることでしょう。—ビリー・グラハム [1]
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。—ローマ5:7–8
イエス・キリストの死を何と比べたらいいのでしょうか。パウロの言葉を読むと、私たちはこの問いに答える言葉がまったくありません。言葉では言い尽くせないのです。キリストの死は、比べることのできない神の愛に基づいているゆえに、いかなるものとも比べることができません。キリストの死は、人間の言葉や経験から言っても、すでに他のいかなる死とも異なっていました。7節にはこうあります。「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう」。ここでパウロは何を言わんとしているのでしょう。…
使徒パウロは議論のために、仮定の状況、シナリオを構築しています。一人の正しい人がいるとします。… 彼は誠実なビジネスをする人であり、他の人を尊重する模範的な市民です。そのような人のために誰かが死ぬことはまれだろうとパウロは言います。そういうことはあるかもしれないが、それはその人が正しい人だからであると。少なくとも、彼のために死ぬ価値はあるかもしれないわけです。しかし、そのような人のために死のうという人はごく少数でしょう。
パウロは続けて、もしかしたら善人のためには進んで死ぬ人がいるかもしれないと言います。この善人は、正しい人とは異なります。正しい人はありふれていて、どこにでもいます。中には信者もいれば、そうでない人もいます。彼らは自分の義務を果たします。しかし、善人はどこか違うところがあるのです。その土地の法律が要求する以上のことをします。同胞に敬意を払うだけでなく、同胞の人格と名誉を高めるために自分にできることをします。… そのような人への愛ゆえに、彼のために命を捧げようとする人がいるかもしれません。しかし、それさえも大きな勇気が必要です。
パウロの要点は何でしょう。それは、人々の中にこのような自己犠牲的な愛を見つけるのは難しいということです。自分の内面に手を伸ばして、誰かのためにこのような愛を生み出すことは極めて困難であり、非常に稀なことなのです。誰も自分の人生を簡単に捨てたりしません。
私たちは、自分のことを善人とも正しい人とも思っていないかもしれません。私たちは的外れなことをし、神との交わりを捨ててしまいました。… しかし、ここにキリストの愛が示されています。私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのためにご自身を捨て、私たちを自由にするために死んでくださったのです。なんと驚くべき愛でしょう。
キリストがこの世に来られたのは、正しい人ではなく、罪人を悔い改めに導くためでした。キリストは善人を探すためではなく、迷い出た者のためにこの世に来られました。キリストは無力で罪深い者のために死なれました。私たちの唯一の救いの望みは、イエス・キリストの比類なき死に示された神の愛にあります。… なんという死でしょう。なんという愛、何という神、何という救い主でしょう。—ライアン・カンペン [2]
私たちの戦いは、時として困難で大変なものに感じられるし、実際に困難で大変なものであることがあります。人生は確かに、私たちの誰にとっても、楽なものではありません。けれども、次のことを覚えておくべきです。主を知らず、神と共に永遠に生きることができるという約束を持っていない大勢の人々が直面する、苦悩や激しい孤独、焦燥感や絶望、愛や目的の欠如に比べたら、私たちの数々の問題など、大したことではないように思われることを。
神の子どもである私たちは、常に神の御霊が共にいて下さり、同じ信仰を持つ友人や、愛する人たちと交わりを持つことができるという祝福にあずかっています。私たちは主の無条件の愛を心から信じており、たとえ多くの過ちを犯しても、ただ主のみもとに行ってゆるしを求めるなら、快くゆるして頂けるとわかっています。
私たちの多くは、主の無条件の愛やゆるしを知っているにもかかわらず、罪悪感や悔恨や自責の念に屈しないことを、未だに学び切れていませんが、それでも学びつつあることに変わりはないし、後悔や苦々しい思いや、罪悪感や自責の念によって、落胆する必要はないのだということを、信仰によって知っています。私たちには、要求することのできる、次のような神の御言葉があります。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ローマ8:1–2)。
ですから、地上の人生に伴う試練や苦しみにうんざりしたなら、主を知らず、ともすれば食べ物や住む所すらない、世界中のさまよえる人々に比べたら、神の子どもである私たちは祝福されているのだということを思い出しましょう。イエスは私たちを救うために、死んで下さいました。それによって、イエスが他の人々を救う手助けを、私たちができるように。
イエスの弟子である私たちは、大勢の人の中に乗り出して、さまよい、沈みかけ、溺れかけている人々を探し出し、彼らに命や希望や真理を与えるよう召されています。私たちには神の莫大な富があり、それをさまよい死にかけている世界と分かち合わなければなりません。その富とは、神の愛、御言葉、そして主がその子ら全員に約束された将来についての知識です。そして自分たちが受け取ったものを、希望や慰めをことごとく失い、自分を愛して下さる神のことも、自分を待っている天国のことも知らずに死にかけており、絶望に打ちひしがれたこの世の人々と、分かち合うよう召されています。彼らには神の愛や真理が、切実に必要です。これらの人々は、その肉体が墓に横たえられる前にさえ、何千という死を味わうのです。あなたがイエスにあって持っている、いつまでも続く喜びと心の安らぎと永遠の命を、彼らにも分かち合うために、手を尽くしてはくれませんか?
人生の目標も、将来への希望もなく、不安な時に頼れる人も、悲しい時に慰めてくれる人も、困った時に助けてくれる人もおらず、重くのしかかる自責の念を取り除くすべも、愛する人の死と向き合うすべも、彼らがどこに行ってしまったのかや、もう一度会えるのかどうかを知るすべもなく、大切なものを失ったり、けがをしたり、病気にかかったり、悲惨な出来事に面した時にどうしたらいいのかわからず、寂しい時に助けてくれる人もいなかったとしたら、どうでしょう?
私たちが誰かに助けられて、イエスとその救いを知るに至ったのなら、私たちもまた他の人のために、同じことをしないでいられるでしょうか。イエスがあなたのために死んで下さるほどあなたを愛しておられたのなら、同様に彼らをも愛しており、彼らのためにも死なれたということです。私たちはそれぞれ、誰かのおかげでイエスを知ることができたのであり、今私たちには、それを他の人たちにも伝える責任があります。主は私たちが他の人々を親身に思いやり、彼らが苦悩や混乱や、愛の欠如の中で生きていることに気づいてほしいと願っておられます。そして私たちは、彼らが探し求めている答を、主と主の御言葉の中に持っています。
主は私たちが他の人に与えるなら、素晴らしい報いがあると約束されました。「あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」(コロサイ3:24)。何という素晴らしいサイクルでしょう。他の人たちに主の愛と真理を与えるなら、主はそのお返しに、私たちに主の力や信仰や喜びを与えると約束されています。その結果、他の人たちは私たちを見て、私たちがイエスと共にいたことを知り、自分たちも主を知りたいと思うことでしょう。—マリア・フォンテーン
2024年3月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:ジョン・リッスン
1 Billy Graham, Hope for the Troubled Heart: Finding God in the Midst of Pain (National Geographic Books, Aug 1, 1993).
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