クリスチャンに与えられた証しの召命

5月 2, 2024

The Christian’s Call to Witness
March 7, 2024

オーディオ所要時間: 10:22
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ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。—使徒1:8

昔、カナダ北部の広大な森で木の伐採を仕事とする若者がいました。ある時、彼が休みを取って近くの町へと出かけたところ、一人のキリスト教牧師が、通りの角で彼に証しをし、彼はイエスを受け入れました。

彼が祈った後、牧師はこう説明しました。「イエスを救い主として受け入れたのだから、君の人生は変わるんだよ。」

続けて、牧師は持っていた聖書の節を指さして言いました。「神の御言葉にはこう書いてあるよ。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。』(2コリント5:17) だから、ジェイク、君に警告しておくが、伐採場に帰ったなら、非常につらい思いをするかもしれない。」

木材伐採人のジェイクに、何が変わるのかと尋ねられ、牧師は、ジェイクが以前の彼ではなくなることを説明しました。もう汚い言葉遣いをせず、酔っ払うこともなくなると。「君はあまりにも以前と違っているので、仲間達は君の信仰ゆえに、いやがらせをするだろう。」

それから、ジェイクは伐採場に戻り、何か月か過ぎて、また次の休暇で町へと出かけました。するとまた、あの牧師が通りの角に立って、福音トラクトを配っていました。クリスチャンとして伐採場で生活するのは大変だったかと尋ねられ、ジェイクは全くそんなことはないと答えました。「あのですね、仲間達は、僕がクリスチャンになったということに全然気がつかなかったんですよ。」

そのような反応は、私たちがクリスチャンとしてどう生きるよう求められているかを示すものではありません。何か心から信じているものがあるなら、他の人たちにそのことについて話すものです。何かのスポーツチームのファンなら、そのチームのことを話すでしょう。もし、自分の支持する政党が良いと信じているなら、その政党のことを話すことでしょう。自分の仕事や大義や理想に力を注いでいる人なら、それについて話すことでしょう。

イエスのことを本当に信じ、愛しているなら、イエスのことを話し、イエスの真理と愛を他の人と分かち合うことでしょう。イエスは言われました。「あかりをつけて、それを枡(や何かの器)の下におく者はいない。」 それと同様に、心からキリストの元に来た人は、どこかの片隅に一人で座って、誰も自分がクリスチャンになったのを見つけ出さないようにと願ったりはしません。そうではなく、「燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせる」のです。(マタイ5:15; ルカ8:16)

クリスチャンは、自分の信仰について、また信仰が自分の人生をどのように変えたかについて、他の人々に伝えるよう求められています。キリストの救いの賜物をいったん受け取り、もしあなたが主にそうしていただくなら、あなたの内におられる主の御霊が、神の愛とイエスの真理を輝かせます。イエスを受け入れ、イエスを信じているなら、イエスの愛と真理と救いの希望を他の人々に分かち合うことは、あなたのために十字架上で命を捧げられた方のためにできるせめてものことなのです。

聖書にはこうあります。「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。」(ローマ10:14) 多くの人は、クリスチャンから福音を分け合われて初めて、イエスについて知るのです。

しかし残念なことに、多くのクリスチャンは、一般の基準とは異なる行動をして目立つことや、流れに逆らうことを避けます。イエスのために立ち上がり、人が自分について何を言うか、どう考えるか、証しにどう反応するかを恐れない信念と大胆さがないのです。人の評価や評判を気にしたり、人の気を害するようなことは望みません。世間の風潮に逆らったり、対抗文化的になったりする気がないのです。

使徒パウロは、「キリストのゆえに愚かな者と」なったように見られ、さらには「卑しめられている」と言いました。(1コリント4:10) あるとき、ロンドンの混雑した通りをクリスチャンの実業家が歩いていました。彼は「私はキリストのための愚か者」と書かれたカードをピンで帽子の前に留めていました。そして、通り過ぎる人が、彼の方を振り返ると、帽子の後ろにもう一枚、別のカードがつけてあって、そこには「あなたは誰のための愚か者ですか?」と書いてあるのです。

クリスチャンがあえて人と異なる行動をとることが滅多になく、主との歩みにおいて用心深くなり、誰の邪魔もせず気を害したりしないよう努力すると言うのは残念なことです。初代教会のクリスチャンとはどれほどかけ離れていることでしょうか。彼らは「天下をかき回してきた人たち」とまで言われています。(使徒17:6) そして、それ以来世界は変わったのです。

キリスト教は確かに当時の世界の現状を乱し、それ以来ずっとそうし続けてきました。キリスト教がちっぽけな運動として始まった当初から生き残り、世界中に広まってきたのは、イエスが私たちに命じられたように、良き知らせを伝え、福音を広め、世界中の人々を弟子にするというクリスチャンの忠実さゆえなのです。(マタイ28:19–20)

旧約聖書にはナアマンの物語が語られています。ナアマンは、もし自分の信仰を堂々と人前で表明していたなら、古代シリアの国民を真の神への信仰に回心させる役割を果たせたかもしれません。ナアマンは最も地位の高い将軍、いわば国防長官であり、王に次いで二番目に重要な人物でした。彼はイスラエルでエリシャによって奇跡的に重い皮膚病を癒やされ、癒やされた後にこう宣言しました。「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。」(列王下5:15–17)

しかし、シリアの王が彼に、シリア人が崇拝する異教の神リンモンの神殿で一緒に拝むよう求めた時、彼は新しく見出した信仰を堂々と表明することをしませんでした。そして、エリシャに弱々しく詫びたのです。「どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。」(列王下5:18) 王と共にリンモンの神殿に入るナアマンを目にした国民は、彼がイスラエルの神によって癒やされたという話を疑ったに違いありません。

クリスチャン生活とは、自分の生き方と言葉と行いを通して、また他の人々に福音を分け合うことを通して、キリストの証人となるとの献身をせよという呼びかけです。イエスは言われました。「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14–16)

クリスチャンとして、私たちはこの世に神の光を輝かせ、人々に道と真理と命、そして唯一の救いの扉であるイエスを示すように召されています。(ヨハネ14:6) 私たちは、自分の魂をこっそりと天国に持ち込もうとする「隠れた」クリスチャンではありません。

あなたは、人の意見を恐れて自分の宗教をひそかに実践しているのですか。それとも、さまざまな時代にいた他のクリスチャン達のように、評判や地位を犠牲にしてでも公然と立ち上がるほどの確信と、クリスチャンとしての勇気を持っているでしょうか。イエスは、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、… おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:7–8) もしあなたが証人となることを恐れたり、信仰が足りないと感じたりしているなら、イエスの証人となる力と愛を与える聖霊で満たしてくださるよう神に求めることができます。

聖書にはこう書かれています。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(1ヨハネ3:16) 私たちは、失われた魂に福音のメッセージを証しし、人々に神の愛を伝え、イエスの愛を示すために、自分自身、つまり個人的な願い、恐れ、評判を捨てるよう求められているのです。

すべてのクリスチャンは、地域社会や職場、家庭、日常生活において、キリストの使節となるように召されています。使徒パウロはこう書きました。「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者(使節)なのである。」(2コリント5:19–20)

私たちは、使節として召されるという栄誉にあずかっています。地上の国の使節ではなく、天の国の使節、そして王の王であるイエスの使節です。神の子であること以上に高い地位や召命はなく、キリストの使節であり、キリストの証人となること以上に名誉なことはありません。

1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年3月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

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