神と神の仕事に与える

4月 19, 2024

Giving to God and His Work
February 22, 2024

オーディオ所要時間: 7:59
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聖書には、エリヤの時代に起こった激しい飢饉のことが記されています。その飢饉の時、ザレパテの町で貧しいやもめ女が、飢えで死んでしまう前に自分と自分の息子に最後の小さなパンを焼こうとして、火をおこすためのたき木を拾っていました。しかし、神の預言者エリヤがやって来て、こう言いました。「まず、私のために小さいパンを一つ焼き、その後で、あなたとあなたの子供の分を作りなさい。そうすれば、あなたのかめの粉は尽きず、びんの油は絶えないでしょう」と。そして、まさにその通りのことが起こったのでした。(列王上17:10–16)

その貧しいやもめは、神の預言者に食べさせて世話することによって神を優先し、それによって、3年に及ぶ長い飢饉を奇跡的に生き延びられたのです。彼女のかめの粉は決して尽きることがなく、びんの油は決して絶えることがありませんでした。3年の飢饉の間、彼女はその同じかめの粉と、その同じびんの油を使って、自分と息子の食物を作り続けたのです。

私たちは、ザレパテのやもめのように、他の人に与えるほどのものを持っていないと感じることがあります。しかし、持っているわずかなものでも神と神の仕事のために捧げるなら、神が祝福してくださると信頼できるのです。

新約聖書にも、貧しいやもめについての似たような物語が記されています。「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ[最小単位の銅貨]二つを入れた。それは一コドラントに当る。」

この貧しいやもめの行動を見ていたイエスは、弟子たちを呼び寄せて、彼らにこう言われました。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。」(マルコ12:41–44)

神殿は貧しいやもめの捧げ物など必要としなかったかもしれませんが、神は彼女の犠牲を同じように称えられました。あなたが神に捧げるものは何でも、神はその与える行為を祝福してくださると確信できます。あなたの動機が正しく、意図が良いものであれば、神はその与える行為を必ず祝福してくださいます。

こんな話があります。ソフィーはサンフランシスコに住む、クリスチャンの洗濯婦でした。懸命に働かなければならなかったものの、彼女はいつも主をほめたたえていました。ある日、路面電車の中で知り合いの女性と出会ったソフィーは、こう言いました。「私が最近どこにいたか知ってる? 中国や、インドや、南洋諸島よ。」 相手の女性は、けげんそうな目つきでソフィーを見ました。彼女が町を離れすらしなかったことを知っていたからです。それどころか、ソフィーは貧しいあまり、路面電車に乗る余裕もほとんどないほどでした。

女性はこう答えました。「どういうこと、ソフィー? あなたはサンフランシスコから出たことさえないじゃない!」 すると、ソフィーは言いました。「私が服を洗濯して稼ぐお金は、私の血と汗と涙と苦労の結晶よ。それは私の一部で、それを宣教師たちに送っているの。そしてそれは世界中に出て行って、福音を宣べ伝えてるのよ。」

神の仕事と宣教師を支援するために送ったお金は、送り主の一部です。あなたは宣教活動や宣教師への寄付を通して、自分の一部を送るのです。宣教地に行くことができなくても、宣教活動に寄付することができます。宣教地に赴いて、すべての造られたものに福音を宣べ伝える人たちを支援することは、自らそれに携わることのない神の子どもたちの果たすべき責務です。そうすることで、あなたは自分のお金を、勝ち取られた魂や永遠に渡る配当に投資しているのであり、神はそれゆえにあなたを祝福されるでしょう。イエスは言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

この原則については、イエスが語られた良きサマリヤ人についての物語の中にも描かれています。このサマリヤ人は、強盗どもに襲われ、殴られた哀れな人を道端で見つけました。良きサマリヤ人は彼を起こし、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、宿屋の主人に、「かかった費用は幾らでも、わたしが支払います」と告げたのです。(ルカ10:30–37)

良きサマリヤ人は主を表し、宿屋の主人は主の「管理者」、つまり主に従う者たちを表しています。私たちが人々を救出し、助け、救いをもたらすために費やすものは何でも、主がそれ以上に報いてくださいます。私たちが神と神の御業に捧げるものは何であれ、それが私たちの時間であれ、お金であれ、資源であれ、最終的には犠牲とはなりません。むしろ、私たちは神の国に投資しているのであって、その見返りは私たちが投資したものを遥かに超えるものとなるのです。

アフリカのジャングルを開拓し、そこで祈りながら死んだイギリスの宣教師、デイヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)は、かつてこう言いました。

人々は、私がアフリカで人生の大半を費やしたことで払った犠牲について語ります。… 健全な活動、善をなしているという自覚、心の平安、そして輝かしい宿命への明るい希望という、それ自体至福の報酬をもたらすものが、犠牲なのでしょうか。そのような考え、そのような思いから、この犠牲という言葉を捨て去りなさい。それは断じて犠牲ではありません。むしろ特権なのです。… 私は一度も犠牲を払ったことがありません。

デイヴィッド・リヴィングストンは決して神以上に与えることなどできませんでした。そして自らの命を捧げはしたものの、救われた不滅の魂という、永遠に渡る配当を得ることでしょう。

自分の人生、時間、お金をキリスト・イエスと神の仕事のために投資するなら、あなたは決して失うことのない、いつまでも刈り取ることのできる永遠の配当を手にすることになります。神は、あなたの与える行為を祝福し、そのせいで少しも損をすることがないようにしてくださいます。あなたは、人々が助けられ、魂がキリストに導かれ、神の王国が前進するという、良き見返りを見るようになるでしょう。だから、神を第一に置きなさい。そうすれば、神はあなたに十二分に報い、返し、祝福してくださいます。

イエスは言われました。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」 (ルカ6:38, マタイ10:8)

あなたは決して神以上に与えることはできません。神はあなたが与える以上に与えることを好まれ、いつだってあなたが与えうる以上のものを与えてくださいます。「神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント9:7–8)

1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年2月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

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