4月 15, 2024
マタイ5:3(新共同訳)にはこうあります。「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである」。これはどういう意味なのだろうと思ったことはありますか? 一見すると、悲しんでいる人、落胆している人を指しているように思えるかもしれません。しかし、よく見ると、それ以上の意味があるのです。私は色々な御言葉のバージョンを比較するのが好きなのですが、NLT訳聖書を見ると、この節をもう少し明確な角度で見ることができます。「神は、貧しく、自分には神が必要だと気づいている人を祝福される。天の国はそういう人たちのものである」。…
主は必ずしも物質的な貧しさという意味で言われたのではないと思います。パウロの「肉体のとげ」(2コリント12章)や「長血をわずらっている女」(ルカ8:43-48)のことを考えると、そのような状況は、神への必要性をより深く知るよう私たちを駆り立てるかもしれません。また、神は金銭的な不足のことだけを指していたのでもないと思います。ただ、この場合も物質的な必要を供給できないときには、主が必要であることがもっとはっきりと見えることがあります。しかし、実際のところ、それはあまりにも安直な捉え方です。
イエスは、私たちが自分自身では不十分であることを謙虚に受け入れることを望んでおられます。私たちはただ十分ではないのです。そして、私たちは十分であろうとします。自分のことは自分でやり、自立しようと懸命に努力し、それが私たちを強くするという嘘を信じてしまいます。しかし、それはこの世のやり方であって、天の国のやり方ではありません。…
その少し後の節で、イエスは、悲しんでいる人たちや迫害されている人たちを、「幸いである(祝福されている)」と言っておられます。それらは困難であって、私たちのいる先進国においては、誰も求めたり「幸いである」と言ったりしません。八幅(至福の教え)に挙げられている状況において、イエスがご自分の民に対し「幸いである」と言われたのは、彼らが努力によって祝福を得るのでもないし、祝福に値するからでもありません。それは、こうした不快で困難な物事を通して、感じ、求め、与え、努力することで、主が彼らと共におられるからなのです。ただ主こそが祝福なのです。…
自分の人生を振り返って、主がされると言ったことを、実際にしてくださったときのことを考えてみましょう。あなたが一人で立っていられなかった状況で、主が支えてくださったときのことを。誰も必要を満たせなかった状況で、主が与えてくださったときのことを。もしかしたら、あなたが望んだようにはしてくださらなかったけれど、深い悲しみのさ中でさえ、あなたが生き延びるのを助けてくださったときがあったかもしれません。…
私たちは自分の力だけでやり遂げることはできません。私たちはすべての答えを持っているわけではありません。しかし、主は持っておられます。主は私たちの前にも後ろにもいてくださいます(申命記31:8)。主は羊飼いのように私たちを導き、ふところに抱いて運んでくださいます(イザヤ40:11)。主は私たちが何を必要としているかを、私たち以上に知っておられます(マタイ6:8)。
そして何よりも、私たちには主が必要です。今日、あなたも私と一緒に、1分でも1時間でもなく、常に主が必要ですと主に告げるよう、私は祈ります。—マギー・クーパー [1]
ある人がビリー・グラハムに、イエスが言われた「私たちは心が貧しくあるべきだ」という言葉はどういう意味なのか、私たちは心が豊かになるよう努力すべきではないのですか、と尋ねたことがあります。グラハムは見事にこう答えました。
イエスが何を言わんとしていたのかという質問ですが、単に、私たちは心が謙虚でなければならないと言われたのです。「貧しい」という言葉を「へりくだる」という言葉と入れ替えれば、イエスの言わんとすることが理解できるでしょう。つまり、私たちが神の御前に行くときには、自分自身の罪と霊的な虚しさ、貧しさを悟らなければなりません。自分には神が全く必要ないと考えて、心の中で自己満足したり、高慢になったりしてはならないのです。そうなってしまうと、神は私たちを祝福できません。聖書には、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)とあります。
この文脈における「幸いである」とは、地上の幸福や繁栄ではなく、むしろ天の霊的な高揚を示しています。ヘブライ語で「貧しい」とは、神の民の間において物質的に貧しい者と信仰深い者の両方を意味します。心が貧しい者とは、貧しい者の心を持ち、貧しい者と同じ態度を取り、神に全面的に依存する者のことなのです。
これは、マタイ23:12(新共同訳)にある、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というキリストの言葉と関連しています。—Christianity.com [2]
福音書のさまざまな場面を見ると、どのような人がイエスに感銘を与えたかがよくわかります。最後の2セントを献金箱に入れたやもめ。不安でたまらず、イエスをよく見ようと木に登った不正直な徴税人。無名の、ごくありふれた子供。5回も不幸な結婚を繰り返した女性。目の見えない物乞い。姦淫を犯した者。重い皮膚病を患う男。強さ、見た目の良さ、人脈、競争本能は、私たちの住む社会では成功をもたらすかもしれませんが、まさにそれらの資質こそが、天の国への入口をふさぐかもしれないのです。
依存、悲しみ、悔い改め、変わりたいという切望、これらこそが神の国に至る門です。「心の貧しい人々は、幸いである」とイエスは言われました。ある注釈は、「絶望している者は幸いである」と訳しています。他に頼るところができず、絶望している人々こそ、彼らが切望する救いを与えることのできる唯一の方イエスに目を向けるのかもしれません。
イエスは、心の貧しい人、嘆き悲しんでいる人、迫害されている人、義に飢え渇いている人には、他の人に勝る特別な「強み」があると本当に信じておられました。もしかしたら、そう、もしかしたらですが、その人は絶望しているので、神に助けを求めて叫ぶものなのでしょう。もしそうなら、その人は本当に幸いなのです。カトリックの学者たちは、旧約聖書と新約聖書の両方に見られる現象を説明するために、「貧しい人々のための神の優先的選択」という言葉を生み出しました。神は貧しい人々や恵まれない人々をひいきしておられるということです。
なぜ神は他のどの部類の人々よりも貧しい人々を特別視するのでしょうか。… 依存、謙遜、簡素、協調、放棄の感覚は、霊的生活において非常に重視される資質ですが、快適な暮らしをしている人々にとっては極めて理解し難いものです。神に近づく方法は他にもあるかもしれませんが、それはラクダが針の穴を通るほど難しいのです。神の国の大逆転において、繁栄している聖徒というのは非常に稀です。…
神の国は物事をひっくり返します。貧しい者、飢えた者、嘆き悲しむ者、抑圧されている者は真に幸いです。もちろん、それは彼らが悲惨な状態にいるからではありません。イエスは生涯の大半を、そうした悲惨な状態を改善するために費やされました。むしろ、彼らが幸いなのは、より快適で満ち足りた生活をする人たちにはない、本質的な強みがあるからなのです。裕福な人、成功した人、美しい人は、生まれながらの賜物に頼って人生を送ることができます。そのような生まれながらの強みに恵まれず、この世の王国で成功するだけの資質がない人々こそ、困窮したときに神に頼るのでしょう。人間は絶望していることをなかなか認めません。しかし、絶望を認めるときに、天の国が近づいてくるのです。—フィリップ・ヤンシー [3]
イエスは座って人々に語られたとき、神の国での生活がどのようなものになるかのビジョンを与えられました。それは、誰も考えたことのないような、全く異なるものでした。イエスは旧約聖書からあらゆる戒めを取り出し、それをさらに深めて、あなたの内面で実際に起こっていることとして語られたのです。
しかし、主はとても興味深い始め方をされました。「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである」。そこに書かれている「貧しい」という言葉は、実際、道端の物乞いを指す言葉なのです。何も持たず、自分でもそれを知っている人という意味です。
そこで主が本当に言っておられるのは、天の国に入る道は、自分が何も持っていないと知ることだ、ということです。悲しいことに、私たちのほとんどはそう思っていません。私たちのほとんどは何かを持っていると思い、それが私たちを天の国から遠ざけています。自分が持っていると思っている全ての物が、です。
イエスが私たちに呼びかけておられるのは、それとはまったく異なるものです。それは、自己充足でも、自己信頼でもないし、神の国の一員になれるように、また、キリストに従う者になれるように、身綺麗にすることでもありません。「私には、これらのことをするためのものは何もありません。自分独りの力でキリストに従うことはできません。隣人を愛することができません。敵を愛することもできません。約束を守ることができません」と言うことであり、これらは全て山上の説教で語られています。そこに入るには、「私には何もありません。このためにはキリストが必要なのです」と言うことです。—バーバラ・ジュリアーニ [4]
人間的な能力の限界に達したとき、自分の限界の壁にぶつかり、人間的な弱さを思い知るとき、あなたは「人にはそれはできない」(マタイ19:26)ことを完全に悟る。しかし、あなたにとって可能なことが全て尽き、これで終わりかのように見える場所は、偉大な始まりの場所なのだ。それは、あなたが終わり、わたしが始まる場所であり、そこでは「信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)。
あなたにとって大きな敗北の場所のように見えるかもしれないが、それは完全な失敗や絶望、失望の場所ではない。その正反対だ。なぜなら、あなたの限界を示す線が引かれたところでこそ、わたしの力と栄光が始まる場所に到達するからだ。そこであなたは、聖なる山、あなたの神の家、王の王の戸口に来る。
あなたは父の家に着いたのであり、あなたが遠くからやって来るのを見ていた父は、今、両手を広げ、大いなる喜びと歓喜をもって、あなたを迎えに駆け寄ってくる。これこそ、あなたがついに自分自身の限界に達し、自分には無理だと気づいて、わたしに立ち返り、わたしの臨在を求めている場所なのだ。自分の霊的な貧しさを認めることで、あなたはわが王国のすべての豊かさにあずかる。
あなたの中には本当にその力がないこと、そしてわたしなしには何もできないことを見出すとき、あなたは自分の限界を超え、わたしの充足を見出すことができる。自分自身の、そして人間的な耐久力と能力の限界に達した人がわたしに立ち返ると、わたしの霊と臨在によって力を与えられるだろう。—イエス
2024年2月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:マイケル・ドーリー
1 https://www.biblestudytools.com/bible-study/topical-studies/what-does-it-mean-to-be-poor-in-spirit.html
2 https://www.christianity.com/jesus/life-of-jesus/teaching-and-messages/who-are-the-poor-in-spirit.html
3 Philip Yancey, The Jesus I Never Knew (Grand Rapids: Zondervan, 2008), 116–117.
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