シンフォニック・マジック

4月 9, 2024

Symphonic Magic
February 7, 2024

カーティス・ピーター・バン・ゴーダー

週末に、私たちは実に素晴らしいシンフォニーの公演に行きました。普通、このようなイベントは私たちの予算をはるかに超えているのですが、直前販売のチケットで、昼の部の良い席を安く手に入れることができました。

曲は、リヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』[1] でした。これは交響詩あるいは音詩と呼ばれるもので、詩や短編小説、小説、絵画、風景などを想起させる管弦楽曲です。

この曲は、夜明けから日暮れまでの11時間にわたるアルプス登山の旅に私たちを誘います。シュトラウスは自然をこよなく愛し、少年時代には、登山家グループと一緒に道に迷い、予期せぬ嵐に見舞われるという、冒険的な登山体験をしています。最高の芸術的インスピレーションは、個人的な体験から生まれるようです。

交響曲を聴きながら、私は100人を超える演奏家が完璧な旋律のハーモニーを奏でられることに驚きを覚えました。旋律は次々と奏でられる音符で、メインテーマを創り出します。ハーモニーとは、同時に演奏される複数の音の組み合わせであり、音のブレンドを形成します。旋律は音楽に喜怒哀楽や感情を加え、ハーモニーは深み、質感、バランス、さらにコントラストによる劇的効果を加えます。

曲は、スローなテンポからアップテンポ、ソフトなものから大音響、甘美な演奏から激しいクレッシェンドまで、そしてまた元に戻るまで、ソロ演奏から特定のセクションの演奏、そして交響曲全体の演奏まで、退屈する瞬間など少しもありませんでした。そのすべてが、適切な音色と音程と強弱をもって溶け合い、指揮者の魔法のタクトに導かれて、完璧なタイミングで演奏されたのです。

それはとても豊かな聴覚体験であり、私の人生のさまざまな側面に当てはめることのできる比喩の鉱山でもありました。どんな演奏も、目の前にある楽譜なしには成り立たちません。演奏者全員が従うべき楽譜は、作成者(作曲家)によって書かれたものであり、変更することはできません。ただ、抑揚や強調、タイミングは調整できますが。もし演奏者の誰かが、楽譜に従わずに自分の好きなように演奏すると決めたらどうなるでしょう。もちろんカオスになるでしょう。しかし、それぞれの音楽家が演奏にもたらす柔軟性や独自の創造性の余地はあるのです。

私は楽譜をどんな比喩に捉えたでしょうか。私にとって、それは神が私たちに与えてくださる言葉です。そう捉えた場合、イエスが作曲家、つまり肉体となった言葉ということになります。すべての音楽家は楽譜を自分のものとしなければなりません。いつ演奏に加わり、最初の部分、中間、エンディングにどうしっくり合わさるかを知らなければなりません。音符通りにやるだけでは不十分で、壮大な結果をもたらすには、各音楽家が必要とされる情緒や感情、曲の精神を添えなければなりません。

指揮者は聖霊です。なぜなら、聖霊は私たちに合図を送り、特定のタイミングで演奏する音楽家を指して、どのような演奏法と激しさで演奏するかを示してくださるからです。音楽家と指揮者は、常に相手とつながり、注目し合っていなければなりません。私たちの指揮者と同調し、わずかな身振りやリードにも敏感であることは、御霊の中に留まり、日々の生活で実を結ぶために極めて重要なことなのです。

次に、音楽家自身に目を向けてみましょう。彼らが自分の楽器を習い始め、ついにマスターするまでに費やしたはてしない時間を思い浮かべてください。挫折や自信喪失を克服することも多かったに違いありません。私がピッツバーグにある交響楽団の打楽器奏者からドラムの個人レッスンを受けていたとき、彼は手と指の動きを学ばせるために、何カ月も柔らかいドラムパッドでドラムを叩かせ、楽譜の読み方を学ばせてからでないと、実際のドラムセットを持たせてくれませんでした。

若い頃はピアノがかなり上手かったのですが、残念なことに、私は忍耐の悪い見本で、ある日、テレビで有名なピアニストのリベラーチェが楽譜も持たずに最初から最後までアドリブで演奏しているのを見て、レッスンを受けるのをやめてしまったのです。私は母に、もうレッスンを受ける必要はないし、彼のスタイルに倣うと言いました。その方がずっと簡単で自由に思えたので、やめたのです。しかし、すぐに飽きて、行き詰まり、それまでの成果を失い始めてしまい、今はもうピアノを弾いていません。

コンサートで私たちの隣に座っていたのは一人の音大生で、彼女は諦めずに課題に取り組んだ良い手本でした。他のオーケストラのヴァイオリニストで、この演奏を聴きに来たのです。どうやって習ったのか聞いてみると、有名なスズキ・メソードに従って3歳から習い始めたと言います。この方法では、親も関与することになります。親も、聴くこと、観察すること、読むこと、グループレッスン、計画されたレパートリーの順番に従うといったことをしていくのです。そして、子供が演奏の楽しさを知り、人格を形成していく過程で、励ましをたくさん与えていきます。彼らの主なモットーのひとつは、「正しい人格、正しい音色」[2] だそうです。

彼女のスキルは長年の練習の賜物であり、傷心と忍耐、そしてレッスン料と送迎をする母親の支えがあってのものだと彼女は言いました。この演奏は、そのような過程を経て音楽家たち一人ひとりが成長し、今、このパワフルな作品として開花した結果だったのです。こうしてみると、私たちの人生には、過去にたくさんの紆余曲折があり、それが今の私たちを作っているのだということを思い知らされます。主はきっと、最初から私たちを準備してくださっていたのでしょう。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」(エレミヤ1:5)。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネ15:16)。

キリストのからだには多くの独特の肢体があるように、音楽家もそれぞれ特別な役割を果たしています。[3] ある楽器のパートは短く、出番を辛抱強く待たなければならないかもしれませんが、それぞれが演奏に不可欠なのです。ピッコロ奏者の有名な話を聞いたことがあるでしょうか。ピッコロは、フルートの長さを半分にした形の木管楽器です。

19世紀の有名な指揮者、サー・マイケル・コスタが、何百もの楽器と声楽家を率いてリハーサルを行っていました。けたたましいオルガンの音、ドラムの連打、ホルンの爆音とともに、合唱団は声量を限りに歌いました。その大音響の中、片隅にいたピッコロ奏者は、「私が演奏しようがしまいが、誰もピッコロの音がなかったなどと気づかないだろう」と自分に言い聞かせ、演奏を止めたのです。すると突然、偉大な指揮者が両手を上げて、リハーサルを完全に停止させました。「ピッコロはどうした!」と彼は叫びました。

私たちにはそれぞれ独自の貢献すべきものがあり、自分の役割を果たさなければそれが失われてしまいます。すべての音楽家が一つになってハーモニーを奏でるとき、それはどれほど美しいことでしょう。「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして…いた」(使徒4:32)。使徒行伝の他の箇所では、「心を合わせて」と表現されています。彼らは同じ和音、同じ音楽を奏でるのです。

交響楽団が集まると、最初に、彼らは楽器をA音(ラの音)に合わせます。通常はオーボエがその音を鳴らします。[4] 私たちは日々の演奏を始める前に、コンサートマスターである主に音を合わせなければなりません。そうすれば、聴く人の心を揺さぶる素晴らしい音楽を奏でることができます。永遠に鳴り響く天国的な音楽を。


1 https://ja.wikipedia.org/wiki/アルプス交響曲

フランクフルト放送交響楽団(hr交響楽団)によるアルプス交響曲の演奏をこちらで視聴できます:

https://www.youtube.com/watch?v=zsTo7QxxgYg

2 スズキメソードについて(英語): https://www.youtube.com/watch?v=2-GvFwoK92U

3 参照: 1コリント12章

4 すべての弦楽器にはA音が入っているため、オーケストラは常にA音で音合わせをします。標準ピッチは、 A=440Hz (毎秒の振動数が440回)になっています。

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