3月 14, 2024
弟子としてイエスの教えを信じ実践することについて、イエスが言われたことを見てみると、イエスを真に信じるならば自分の優先順位を変えなくてはいけないことが分かります。信者には、イエスを第一の忠誠の対象とすべきであることが求められており、これには物質的所有物以上にイエスを優先することが含まれます。それは、イエスがある金持ちの青年と出会われた時の話で明らかになりました。
「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、『よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』」。(マルコ 10:17)
マルコは、この人が金持ち(富んでいる者)であると言っています。マタイの福音書では、青年であると書かれ、ルカでは役人と呼ばれています。(マタイ 19:20; ルカ 18:18) [訳注:口語訳聖書で役人と訳されたこのギリシャ語の言葉は、英訳聖書の多くで支配者と訳されており、他にも指導者、議員、会堂長などを指すことがあります。] そこで、従来この人は「金持ちの若い役人(指導者)」と呼ばれています。会堂長となるには年上である必要があるため、その可能性は少なそうですが、おそらく金持ちで有力な地域の指導者だったのでしょう。
イエスは、この人が律法をよく知っていることをご存知だったので、神の民に対する御心を反映していた十戒から引用して答えられました。この人はそれらのことはみな、子どもの頃から守ってきたと答えました。彼はトーラーを順守するユダヤ教徒で、おそらくはいい人生を生きてきたのであり、自分が永遠の生命を受け継ぐことができるのを確かめたかったのでしょう。
彼は戒めを守ってきたけれども、まだ何かが足りないと感じていました。戒めを守るだけでは、心から神のことを知り、神に仕えたいという彼の探求は果たされなかったと。その足りないものとは一体何なのか、イエスにたずねました。
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、『あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』」。(マルコ 10:21)
若者は、自分の優先順位を再調整するよう促されました。彼は戒めのほとんどを守っていたけれど、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」(申命記 5:7)という大切な戒めを喜んで守ろうとしていませんでした。自分の忠誠の対象を神に変えることができなかったのです。彼にとっては、地上の富の方が「天の宝」よりも大切でした。彼の富が、彼と神との間に立ちはだかっていたのです。イエスが彼に求められたのは、その邪魔物を取り除けるようにということでした。
これは、持っているものをみな売り払って、イエスに従っていくよう、信者全員が求められたというわけではなく、この若者が神の前に何を置いていたのかを明らかにするために言われたのでした。富を持ちながらイエスに従った者たちはいましたが、彼らは自分の富の優先順位を正しく保ち、神を第一に置いたのです。その例として、アリマタヤのヨセフやヨハンナ、スザンナなど、自分の富を他の弟子たちに分け与えた人たちがいます。また、使徒行伝には、土地を所有していたバルナバや、事業を経営していたルデヤ(リディア)といった忠実な弟子が登場します。
イエスは、山上の説教で次のように話しておられます。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。(マタイ 6:24) イエスにいつくしまれ目を留められたこの人は、自分の資産を愛するよりも、神への愛と「永遠の生命を受けたい」という願いを優先しようとしませんでした。「すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」。(マルコ 10:22)
それから、こうあります。「イエスは見まわして、弟子たちに言われた、『財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう』。弟子たちはこの言葉に驚き…」。(マルコ 10:23–24) イエスは、財産のある者が神の国に入るのは「難しい」と言いましたが、それが「不可能である」とは言われませんでした。しかし、それから誇張法を用いて、次のように言われました。「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マルコ 10:25)
イエスの言葉は、何か不可能なことを表現していたのです。この金持ちの人が自分の努力によって神の国に入ることはできないと。
「すると彼らはますます驚いて、互に言った、『それでは、だれが救われることができるのだろう』。イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。(マルコ 10:26–27)
この金持ちの若者について言われたことは、実際は全ての人について言えることです。富んでいても貧しくても誰であれ、自分の努力で救いを得られる人は一人もいません。それはできないことです。しかし、人にはできないことも、神にはできます。救われるには、神の慈悲深い働きが必要とされるのです。
それからイエスは、召命に従い、自分にとって大切なものを犠牲にしてイエスに従ってくる者たちは、この世においても永遠に渡っても大いに報いを受けると言って、弟子たちを安心させなさいました。(マルコ 10:28–30) イエスを信じて従った者たち、他に愛するものやこの世の富よりもイエスを最優先した者たちには、永遠の生命が約束されています。
金持ちの若い役人の話が教えているのは、他のものへの忠誠が、イエスに従うのを妨げうるということです。イエスはこの出会いを通して、神を第一に置くことが真に弟子となるための必要条件であることを示されました。—ピーター・アムステルダム
聖書は、この男がおそらくは息を切らしてイエスのもとに駆け寄り、足もとにひざまずいてこう言ったと伝えています。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。…
この金持ちの宗教指導者は、地元の高級デパートかどこかで買った服で着飾っていたことでしょう。一方、イエスは地元の古着屋で買ったような服装でした。特に、イエスが子供たちとの時間を楽しみ、子供たちを祝福なさったばかりであったことを考えると、その光景は興味深いものだったに違いありません。「最も小さい者たち」と共にいた方が、今度は「最も尊敬される人」と話しているのです。
それでも、この男はイエスを「よき」お方と呼びました。それは、神と呼ぶに等しい呼び方です。それから、男は宗教指導者として、永遠へのまっすぐな道を示す地図を求めました。…
その男の質問に対し、イエスは戒めを守らなければならないと答えました。…金持ちの男に対するイエスの答えはこのようなものでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」。そのいずれも、神と人間との間のことではなく、人間と人間との関係についてのものでした。
金持ちの男が心の中で、「いやいやいや」と言っているのが聞こえるかのようです。というのも、彼はすぐさまイエスに、子供の頃からこれらの戒律を守ってきたと告げたからです。…
そして次の節ですが、私はそれを読むたびに感動を覚えます。「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」(マルコ10:21)。なぜだと思いますか? (私は考えてみました。) イエスがすべての人を愛して(いつくしんで)おられることを私たちは知っていますね。では、その瞬間、何がこの二人をこのように結びつけたのでしょうか。全宇宙を所有し、私たちが想像することも所有することもできないほどの豊かさをお持ちのイエスが、すべてを捨てて貧しい巡回教師として生きておられ、のちに十字架にかかることになるからでしょうか。
もしかしたら、両者にはこの類似性があったため、そのような結びつきが生まれたということなのでしょうか。また、イエスはこれから彼にたずねようとしている質問や、それに対する金持ちの男の答えが心の痛みをもたらすものとなることを知っておられたということなのでしょうか。男がすべきだった一つのこと、彼に欠けていたこととは、すべてを売り払い、すべてを捨てて、イエスに従うことだったのです。そこに、実際、最初の4つの戒めがあります。何よりも神であり、ただ神のみだということです。神に、ただ天の王座だけではなく、私たちの心の王座にも座っていただくべきなのです。
その男は顔を曇らせて立ち去りました。地上での所有物は、彼にとって永遠の命よりも価値があったのです。
あなたならどうしますか? 主のためにすべてを売りますか?…もし主が、あなたが人生で楽しんでいるものを指さして、「それを下に置いて、わたしについて来なさい」と言われたら、どうしますか?
あなたならどうしますか? なぜあなたは主を「よき」お方と呼ぶのでしょうか? さあ、今度は私たちが答える番です。—エバ・マリー・エバーソン [1]
これを聞いた人々は、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねました。イエスはそれにお答えになった時に、自分の成し遂げたことによって救われる人はいない、しかし神だけが人間にできないことをできるのだというようなことを言われました。誰も努力によって救いを得ることはできません。それは神からの賜物なのです。…
この箇所で、イエスは金持ちの若い男に語りかけておられます(ルカ18:18-30)。…この若い宗教指導者は、安心感を、つまり自分が永遠の命を持っていることを疑うことなく知るための方法を探し求めていました。彼はイエスに自分の能力を測り、評定していただくか、永遠の命がもらえることを確実にするためにできる何かの雑用のようなものを与えてもらいたかったのです。そこでイエスは、すべきことを伝えたのですが、それは、この宗教指導者が自分にはできないと感じるようなことでした。
これを聞いた人々は、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねました。イエスはそれにお答えになった時に、自分の成し遂げたことによって救われる人はいない、しかし神だけが人間にできないことをできるのだというようなことを言われました。誰も努力によって救いを得ることはできません。それは神からの賜物なのです(エペソ2:8-10)。…
永遠の命の確証を求めるこの男性に対し、イエスは、救いは神への崇拝を伴わない立派な行いからは生まれないという事実に注意を促しました。この男性は、初歩段階からして、間違っていたのです。守るべき戒律や立派な行いをもうひとつ増やすのではなく、彼はキリストの支配に謙虚に服従する必要がありました。
この男性は豊かであるゆえに、順調な人生を送り、高い名声と権力を得ました。イエスは、持ち物をすべて売るように勧めた時に、この男性をそのような人としているもの、つまり、彼が頼みとしているもの、そのものに触れていたのです。その男性は、イエスに従った方が、富を持っていた時よりもずっと安心していられるということを理解していませんでした。ここに、この男性の欠点が表れたのです。
要するに、彼の豊かさが彼にとっての神だったのです。富は彼の偶像となり、彼はそれを手放そうとしませんでした。そのように、彼は十戒の中で最も重要な第一の戒めをおろそかにしたのでした(出エジプト20:3; マタイ22:36-40)。
意外なことに、彼はその態度により、第一の戒めを守れなくなったのです。彼は、イエスが与えた一つの前提条件、すなわち、自分の心と人生のすべてを神に捧げるという条件を満たすことができませんでした。この男はイエスのもとに来て、自分は何をしたらよいのか尋ねたというのに、結局、自分には何ができないかを悟って、去っていったのでした。
イエスは、すべてのクリスチャンに対し、持ち物をすべて売るよう要求しているわけではありませんが、人によっては、そうすることが御心である場合もあるでしょう。いずれにせよ、イエスは私たち全員に、何であれ、私たちにとって神よりも必要不可欠となったものを処分するよう求めているのです。仮に、安心を感じる根拠が神から自分の所有物へと移ったとするなら、そのような所有物は処分した方がよいでしょう。
自己や富ではなく、神への信仰と確信こそが大切なのです。…クリスチャンとして、私たちが実際に受ける報いとは神の臨在と聖霊の力です。後に、永遠という時の間に、私たちはクリスチャンとしての奉仕と信仰に対する報酬を受けるでしょう。—クリス・スワンソン [2]
2024年1月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー 音楽:マイケル・ドーリー
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