3月 2, 2024
クリスチャンにとって、定期的に集まって主を礼拝し、交わりを持てるというのは素晴らしい祝福であり特権です。多くのクリスチャンは、公に集まって交わりを持つことができない国に住んでいます。私たちは、他のクリスチャンとの交わりを望み、求めるべきです。なぜなら、私たちには、自分と同じように信じ、主を愛し、主に仕え、主のために生きている人たちと一緒に過ごす必要があるからです。
現代世界において、クリスチャンとして生きるのは必ずしも簡単なことではありません。ですから、他のクリスチャンと交わりを持ち、神の言葉を共に読んで勉強し、歌を歌い、主を賛美し、互いのために祈り、祈りを求められるというのは、まさに祝福なのです。また、それは共にコミュニオン (聖餐式)をするのにも良い時です。
ヘブル10:24-25はこう告げています。「愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日(イエスの再臨)が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
自分たちが霊感され、霊的に新たにされ、主の御言葉によって強められるには、他のクリスチャンと共に交わりを持つ必要があると、主は知っておられました。また、先の聖書の節にあるように、共に集まるのは、互いに励まし合い、愛と良きわざにおいて成長するよう互いを鼓舞し合う時でもあります。さらに、団結には大いなる力があり、団結した祈りや交わりには力があって、主はそれを祝福して下さいます。(使徒行伝4:32-33参照)
けれども、それが教会の建物の中であれ、個人の家の中であれ、店先であれ、テントの中であれ、共に交わり、霊を新たにするための集まりは、主のための「奉仕 (サービス) 」ではないということを覚えておくのは大切なことです。教会では、交わりのための集まりが「礼拝 (サービス) 」と呼ばれており、一部のクリスチャンは、教会に行って献金しさえすれば、神に喜んでいただけると信じています。
けれども、主のための実際の仕事や奉仕とは、他の人々に主の愛と真理を反映し、御言葉に従って生き、福音を分かち合うことで、毎日主のために生きることなのです。霊的な交わりと礼拝のために共に集まるというのは、これからの日々と、私たちが直面しうる問題と困難に備えて、新たにされ、再び霊感され、霊的に強められるためなのです。
マルコの福音書で、イエスは弟子たちを、人々に証しをするために送り出しておられます。証しというのは大変な仕事で、彼らが奉仕を終えた時のことを、聖書にはこう書いてあります。「使徒たちはイエスのもとに集まってき … た。するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』」(マルコ6:30-31)。それと同様に、今日でも、主のための奉仕(サービス)と、私たちが新たな活力を得るために「イエスのもとに集まり」、「人を避けて休む」こととの間には大きな違いがあります。
キリスト教が始まって最初の200年間、キリスト教の建物というのはなく、クリスチャンはただ、どこでも集まれるところで集まりました。イエスは、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と言われています(マタイ18:20)。森やカタコンベ(地下墓地)などで秘密の集まりを持つのを別にしたら、当初、クリスチャンが集まるのは自分たちの家だけでした。使徒パウロは書簡で繰り返し、「誰々の家の(家にある)教会」という言葉を使っています(ローマ16:5; 1コリント16:19)。
新約聖書が書かれたギリシャ語から「教会」と訳されている「エクレシア」という言葉の元々の意味は、「呼び出された者の集会」、つまり「信者の集まり」なのです。神の生きた教会とは、神を信じ、イエスに従う、「キリストの体」のことであって、建物や特定の宗派のことではありません。教会とは、真の信者の集まりのことで、コンクリートや鉄骨からなる、生命のない建物のことではないのです。
悲しい事に、キリスト教は次第に建物に興味を抱き始め、イエスの愛で世界に手を差し伸べるというビジョンを失い始めました。そして建物や敷地を得ることに重点を置くにつれ、福音を一度も耳にしたことのない、何百万もの失われた魂をキリストに導くという教会の召命を見失ったのです。教会がそのお金を、世界の人々に福音を宣べ伝えるために使い、宣教師を援助したり、福音文書を印刷したりし、さまよえる人々に、神の愛や真理をもたらしていたなら、もっと多くの人々がメッセージを聞き、この世界の貧しい人々、虐げられている人々、栄養不良の人々が支援を受けることができたでしょう。私たちの神への礼拝は、私たちを教会の外に出して、この世界の失われた人々や苦しんでいる人々に手を差し伸べようとさせるべきです。
イエスは、どこで礼拝すべきかと人々に聞かれて、こうお答えになりました。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、[かつて神殿のあった]この山でも、またエルサレム[の神殿]でもない所で、父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」(ヨハネ4:21, 23)。
初代教会の殉教者ステパノは、死の間際にこう宣言しました。「いと高き者[神]は、手で造った家[神殿]の内にはお住みにならない」(使徒行伝7:48)。神の住まわれる真の宮(神殿)とは、人間の心、つまりあなたの心、主を知り、主を愛しているすべての人の心なのです。(1コリント3:16-17)。聖書によると、神が住もうとなさるのは人々の心の中であることが明確です。
教会の建物も、クリスチャンが霊的に養われ、活力を得、団結して祈るといった交わりを定期的に持てるので、確かに役に立ちます。個人の家では、みんなを招くには大きさが十分でないことが多いからです。教会の建物も、週に一度だけではなく、もっと頻繁にメンバーが集まって、神の御言葉を研究し、学び、またいかにクリスチャンとして生活するかや、いかに他の人に証しするかを学ぶ場所として活用できるなら、神の栄光のために最大限に使うことができます。
イエスは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と言われましたが、それは、イエスに従う者は皆、イエスの教えを広めるためにできるだけのことをしなさいという意味でした。仕事や、他のすべき事があるかもしれませんが、少なくとも自分の家族や友だちに、同僚や仕事仲間に、またその日出会う人に、良き知らせを分かち合うことはできるはずです。
クリスチャンのほとんどは、教会に定期的に出席し、宣教活動と教会を支援することの重要性を理解していますが、すべてのクリスチャンが教会の建物の外にいる困っている人を助けるために、自分の信じていることを実践するよう召されていることを理解することも重要です。また私たちは、失われた人々や、貧しい人、困っている人に福音を宣べ伝えることに犠牲的に人生を捧げている宣教師たちを支援すべきです。
あなたは、他の人々に対するイエスの愛の証人となれるよう、どこにいようと、あなたの内にいますイエスに輝いてもらっていますか。私たちは一人ひとり、世界に主の光を輝かせる、山の上にある町のように、主の愛によって世界に手を差し伸べる、主の生きた教会の一部となるべく召されています(マタイ5:14)。「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、… 神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(1ペテロ2:5)。
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年1月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
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