その苦難にあずかって

2月 27, 2024

The Fellowship of His Sufferings
January 17, 2024

デービッド・ボリック

私のもとにはさまざまな必要のための祈りの要請がよく寄せられますが、その多くは身体的な病気に関連したものです。それで、私はよく、2コリント4:16の、 「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」という聖句に励ましを求めています。私が自分自身に言い聞かせ、また他の人にも話しているのは、後半の部分にもっと焦点を当てなければならないということです。特に、今は歳をとることが、口に出さずともネガティブに取られるものとなっているほどですから。私自身、外なる人が滅びるという最初の部分は、何の助けもなしに理解できます。それには明白な証拠が山ほどありますが、内なる人が新たにされるという後半の部分については、正直なところ、私は必ずしもはっきりわかっているとは言えません。どうすれば、理解を深められるでしょうか。

それをよりよく理解するために、視野を広げようと、2コリント2章や聖書の他の箇所で、新しくなることについて語られている節をもっと見てみました。その結果、とても面白いことがわかりました。これはただの第一印象であり、ここで本格的に証拠資料にしようというつもりはありませんが、今のところ、新しさや刷新について私が見つけたすべての箇所の近くに、必ず、苦しみや死、混乱について述べられているのです。

例えば、内なる人が新しくされていくことに関する節のすぐ後の節を考えてみましょう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(2コリント4:17)。これは、パウロがローマの人々に語ったこととよく似ています。「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。そこから少し後の節にこうあります。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである」(ローマ8:35-36)。

「患難、苦悩、迫害」などは、「わたしたちに現されようとする栄光」に入る前の控えの間のようなものであり、特に使徒たちにとってはそうでした。また、さらにいうと、他の人々に福音をもたらすことで彼らの足跡に従おうとする人たちについても、同じことが言えます。[1]

迫害を受けると予期していることは、主の弟子たちに対する教えの一部であり、[2] 使徒たちの言行を記した書には、彼らがその成就を喜んでいる様子が記されています。(使徒5:40-41) ステパノは、使徒たちが任命した弟子たち(使徒6:6)の中で最初に、実際に「血を流すほどの抵抗」をして、「罪と取り組んで戦う」こと(ヘブル12:4)をしました。パウロはそれを目撃し、後に一般的なパターンを次のように説明しました。「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出 … された」(1コリント4:9)、「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」(2コリント4:12)。パウロは、使徒行伝5章に登場するペテロや他の使徒たちと同様、自分が宣教した人々のために苦しむことを喜びました。彼はこれを「その苦難にあずかって」いると表現しました(ピリピ3:10)。彼はまた、自分が使徒であることの証拠として、自分が遭った危険の数々を列挙したのです(2コリント11:23-33)。

イエスは病人を癒し、目の見えない人に視力を与え、死人をよみがえらせましたが、主を嘲笑う者たちは「医者よ、自分自身をいやせ」(ルカ4:23)、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」(マタイ27:42)と言ってイエスを愚弄しました。偉大な使徒パウロは、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(1コリント11:1)と言って、彼に倣うよう促しましたが、彼もまた、イエスと同じような扱いを受けています。[3]

ここから私が学んだのは、癒しを求めて祈り、多くの場合は本当に癒されると信じることは重要ですが、肉体的に即座に癒されることだけが、苦しみから得られると期待される、神の御旨に沿った結果であるとは限らないということです。[4] その苦しみは、私たちの人生において内なる人が新たにされ、「平安な義の実」(ヘブル12:11)を結ばせるために神が用いられるものなのかもしれません。

「外なる人は滅びても」というあの節を、一歩引いて見てみると、使徒パウロは、老齢やこの堕落した世界での通常の生活に伴う痛みや苦痛、深刻な病気よりも、迫害に関連した苦難を念頭に置いているように思えます。しかし、いずれにせよ、肉体的な苦しみはすべて罪の結果であり、人類が不従順によって罪と死へと陥った結果なのです。

「その苦難にあずかって」という言葉は私にとって慰めとなっています。人々に愛されている詩篇23篇のあの言葉を思い出させるのです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(4節)。そして、この節も思い出します。「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)。

* * *

私たちの心の奥底にある切なる願いに身を委ねることは、おそらく十字架を理解することに限りなく近いのでしょう。… 私たち自身の十字架の経験は、救い主の経験に比べれば限りなくささいなものですが、それでも、救い主の苦しみにあずかることで救い主を知り始める機会を私たちに与えてくれます。私たち自身のあらゆる形の苦しみにおいて、主はご自身の苦しみにあずかるよう私たちを招き入れてくださるのです。—エリザベス・エリオット

私たちの世界がどれほど悲しみの「恩恵」を受けているかは、どんな言葉でも言い表すことはできません。詩篇のほとんどは荒野で生まれました。新約聖書の大きな部分は牢獄で書かれました。聖書にある最も偉大な言葉はすべて、大きな試練を経て書かれたものです。最も偉大な預言者たちは、「苦しみの中で学び、それを自らの書に書き記し」ました。だから、悩めるクリスチャンよ、慰めを受けなさい。私たちの神が人を用いようとするとき、神はその人が炎のるつぼを経験するのを許されるのです。—ジョージ・マクドナルド


1 参照: ローマ 8:17; 2 テモテ 2:12.

2 参照: マタイ 5:10–12, 10:23, 20:22–23; ルカ 21:12; ヨハネ 15:20, 16:2.

3 参照: ヨハネ 15:18–20; 使徒 9:15–16; 1 コリント 15:31.

4 参照: ヨハネ 9:2–3; ヘブル 11:35–38.

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