優しい言葉で答えなさい

2月 12, 2024

Responding with Graciousness
January 9, 2024

引用文集

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いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。—コロサイ 4:6–7

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パウロはベレヤでテサロニケの人たちによる迫害から逃れたのち、アテネに来ました(使徒 17:13-15)。アテネでのパウロの証しは、使徒行伝の中で、キリスト教教師が非ユダヤ人思想家に挑戦したという、最も詳細な記述となっています。パウロの時代のアテネは、知的、文化的、軍事的影響力における絶頂期ではありませんでしたが、それでも文化的に大いに発展していました。… パウロは、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、「心に憤りを感じ」ました(使徒 17:16)。しかし、パウロはアテネの人々に対し雷鳴のような非難を浴びせる代わりに、会堂で、ユダヤ人たちと神を恐れるギリシャ人たちに対し、いつものように日々、理を説いて聞かせ始めました。

アテネには、パウロと「議論を戦わせていた」「エピクロス派やストア派の哲学者」たちがいました(使徒 17:18)。彼らは、パウロが「異国の神々」を宣伝する「おしゃべり」(知識の盗用者という意味)であるというぬれぎぬを着せましたが、それにも関わらずアレオパゴスでの評議所で話すようパウロを招いたのです(使徒 17:18-19)。…

パウロは、彼らの「拝むいろいろなもの」を見ていたので、彼らが「すこぶる宗教心に富んで」いることに注目し(使徒 17:22-23)、共通の基盤を見出しました。パウロはこれが偶像崇拝であることを知っていましたが、壁を築くのではなく橋を架けるために、中立的な表現を使ったのです。私たちもまた、私たちの中にある不信仰の象徴に心を痛めるべきですが、他の世界観との接点を見極め、それを生かすように努めるべきです。

パウロはその後、「知られない神」の祭壇を見つけたと告げています(使徒 17:23)。しかし、彼らが「知られない神」としたものを、パウロは今、彼らに対して明らかにしています。彼の宣言(使徒 17:24-31)は、キリスト教の信仰表明の傑作であり、その美しさは短いスペースでは捉えきれません。パウロは、自分が対面している哲学者たちの視点を知りながら、イエスのメッセージではなく、聖書の天地創造の教理から説き始めたのです。…

パウロは、人格を持つ超越的な神が全宇宙を創造されたのであり、その存続は神に依存していると断言しています。「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え …」(使徒 17:24-25; ヘブル 1:3も参照)。これは、キリスト教と両方の哲学者陣営の間に鋭い対照を生み出しました。ストア派は人格を持たない「世界霊魂」、つまり今日のニューエイジのスピリチャルな原理や映画『スター・ウォーズ』の「フォース」のようなものを信じていましたが、それに対してエピクロス派は人類に関心を持たない複数の神々を信じていました。

この創造主は人類と密接に関わる方でもあると、パウロは宣言します。神は一人の人間からすべての人を創造し、人類が生きるための条件を整えました。神はそうすることで、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒 17:27)のです。…

パウロは、人格を持ち、超越的で、内在し、関係的な神を提示しています。キリストについて一言さえも語る前に、これらすべてを伝えているのです。ここでも、パウロを私たちの弁明の手本とすべきです。神についての聖書的な観点を確立しない限り、人々はイエスを間違った世界観の中に置き、主であり、神であり、救い主である(ピリピ 3:20; コロサイ 2:9)というよりも、単なるグールーやスワーミー、預言者とみなしてしまうでしょう。—ダグ・グルーシウス [1]

塩で味付けされている

「ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかる」よう、信者の言葉は塩で味付けされていなければなりません(コロサイ 4:6)。福音を伝えることには、福音を知り、福音を正確に伝え、謙虚で品格のある態度で福音を伝えることが含まれます。信者は、「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」と命じられています(1ペテロ 3:15,16)。不健全で不愉快な態度をとることは、キリストの福音にふさわしくありません。不愉快な動機や態度は、「塩で味付けされた」言葉を生み出しません。

すべての会話が明確に神についてである必要はありませんが、すべての会話は塩で味付けされていなければなりません。私たちは常に、自分の信仰について他の人の質問に答える準備ができているべきであり、私たちの言葉は常にキリストを反映していて、さもなければ不愉快な会話にもなりえたものに、違った「風味」を添えるものでなければなりません。クリスチャンが何をどのように言うかは、塩が料理をおいしくするように、会話の価値を増すものでなければなりません。… 塩に癒しの効果があるように、私たちの言葉は癒しと善をもたらし、聞く人を励まし、生命に不可欠な方へと導くものでなければならないのです。—Gotquestions.org [2]

塩と光

私たちの内にある望みを他の人たちに伝えることは、私たちの人生における最大の賜物、そして喜びの一つです。私たちの愛や喜びや神の言葉への確信を通して、うなだれた霊を引き上げることは、私たちがあるべき存在でいるための鍵です。暗闇にいると光に引き寄せられるように、人々はあなたの内にある望みを見る時に、その望みにひかれます。イエスは、私たちをこの世の人々とは異なる存在とする、人生での特別な輝きを、塩にたとえられました。「あなたがたは、地の塩である」と言われたのです。—マリア・フォンテーン

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教皇ヨハネ・パウロ二世が、平凡さと自己満足という誘惑を克服することについて大学生に語ったことが伝えられています。こう語ったそうです。「はりつけにされた王、キリストに従う時に、信者は、統治するとは仕えることであり、また、他の人たちにとっての益を求めることであると学び、愛の真の意味は、自らを心から与えることに表されることを発見する」。そして、この精神をもって人生を生きる時に、クリスチャンは「地の塩」になると言ったのです。また、こう語っています。「これは楽な道ではない。皆さんと同年配の人たちの考えとは正反対であることが多い。ということは、当然ながら、一般的な行動ややり方に関しては、 時流に逆らうことである。… 十字架の神秘は、この世界の精神とは相容れない在り方と行動とを教えるものである」。[3]

私たちはクリスチャンとして、信仰による味付けをもたらし、物事を活気づけるよう求められています。同時に、誰もがその味を好きなわけではないし、慣れ親しんだのとは異なる信条や価値観によって自分のまわりの世界が味付けられるのを好むわけでもないことを認識しなければなりません。信仰に対して異議を唱えられることや反対を受けることなどは、クリスチャンとしての生き方の一部なのです。

コロサイ書でパウロは言いました。「信者でない人の間で賢く行動し、すべての機会を最大限に生かしなさい。塩で味つけられた、やさしく感じの良い言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対して適切な答えができるであろう」(コロサイ 4:5-6 英語NLT訳)。これは、信者ではない人たちに証しする際、「すべての機会を最大限に生かし」、かつ、私たちの語る言葉がやさしく感じの良いものであり、私たちの信仰やクリスチャンの手本という塩によって味付けられたものであるように、という良いバランスを提示しているようです。パウロの結論では、それこそが、ひとりびとりに対して適切な答えをすることができるようにしてくれるのです。ペテロも、「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」と言っています(1 ペテロ 3:15)。

こんな言葉があります。「神は地球全体を塩で味付けし、全人類の思いを光で照らすために、[初期のクリスチャンたちを]世界中に散らされた」。結局のところ、塩は、食べ物の旨味を引き出す大切な調味料として多くの人々に重宝されています。イエスはご自分に従う者たちを塩や光にたとえられました。クリスチャンが多くの人に受け入れられ、クリスチャンの信仰が多くの人生にとって塩や光のように必要不可欠なものになると考えておられたのであり、その考えは妥当なものと思えます。主が私たちを他の人たちへの影響力を持つ存在とし、彼らの人生で善を促進する力として下さるというのはかなりの任務であり、ものすごく栄誉あることです。

私たちの内にそうした塩の資質を携え、それによって、周りの世界に主の味付けを与えることは、私たち一人一人に任されています。クリスチャンとしての手本を表し、イエスの教えに従うことがゴールとするものは、昔からずっと、「地の塩」となり、他の人を主に引きつける「世の光」また「山の上にある町」となることだったのです。それによって、その人たちもまた主を知り、主を愛するようになるし、そして彼らにその気があるなら、他の人たちも同じことをするよう助けることになるのです(マタイ 5:13–14)。

主がこれからもあなたの人生を祝福し、あなたの証しや活動を強めて下さいますように。そして、それらが地の塩となり、大勢の人たちの道を照らすともしびとなりますように。—ピーター・アムステルダム

優しさに満ちた話し方

話し方については、皆さんはおなじみのことわざを聞いたことがあると思います。たくさんありますから。「口は災いの元」、「神は私たちに2つの耳と1つの口を与えた」、「ゆるい唇は船を沈める」などなど。このようなフレーズや箴言が数多く存在するのは、誰もが皆、不注意に話したり誰かを傷つけたりしたことを後悔しているからでしょう。

ソロモンは「知恵ある者が口にすることばは優しく」と書きました(伝道者の書 10:12 新改訳第三版)。使徒パウロは、私たちの会話は常に優しい言葉で満ちているべきであり、その一つひとつの言葉に神のいつくしみが込められていなければならないと教えています。私たちの話し言葉は、塩で味付けされたもの、すなわち、風味豊かで、必要に応じて相手を清め、癒すものでなければなりません。このような思いが私たちの話し方を支配するとき、私たちは後で深く後悔することなく、誰に対してもどのように答えるべきかを知ることができます。

私たちの世界は、皮肉な話し方、厳しい反論、喧嘩腰の話し方を推しているように思えます。そうではなく、上品で丁寧な言葉使いを選びましょう。人々は、それがとても心地よく魅力的だと感じ、イエスについてもっと知りたいと思うかもしれません。あなたが使う言葉は、誰かの人生に希望と意味をもたらすことができるのです。—Haventoday.org [4]

2024年1月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク


1 Doug Groothius, Christian Apologetics: A Comprehensive Case for Biblical Faith (IVP, 2012).

2 https://www.gotquestions.org/let-your-words-be-seasoned-with-salt.html

3 Address to UNIV 2002 Congress in Rome, as reported by Zenit news service, March 25, 2002.

4 https://haventoday.org/anchor/seasoned-language

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