2月 10, 2024
救いという神の賜物について、尋ねられる可能性のある質問の一つとは、「全能の神が、なぜ愛する御子を地上に送り、私たちのために死ぬという史上最大の犠牲を払わせなければならなかったのですか?」というものです。ただ指をパチンと鳴らして、「これで済んだ」と言い、私たちをゆるすことはおできにならなかったのでしょうか。なぜそうされなかったのでしょう。神はご自分の無限の愛がどのようなものであり、その愛ゆえに、私たちのためにどんなに大きな犠牲を払うことも厭われないかを、私たちに理解してもらいたかったのです。イエスはご自分のすべてを与えることによって、愛とは何であるかを、私たちが学ぶ手助けをすることを厭われませんでした。
すべてのことについて父なる神に信頼しつつ、苦しみ犠牲を払うというイエスの見本を見ていなかったとしたら、私たちはどうやって神の愛の御霊を理解できていたでしょう。同様に主は、ご自分が人生に起こる数々の物事に勇敢に向き合うことを通して歩まれたのと同じ歩みを、私たちもまた、主が切り抜けさせて下さると信頼しつつ、歩むようにと求められています。
私たちが示すことのできる最高の見本とは、逆境に遭っても揺るがない信仰の見本です。そのような見本は、他の人々も同じことをしたいという気持ちにさせます。人々は聖書や、過去にクリスチャンたちがどのように信仰や信頼を表明してきたかについて書かれたその他の本の中で、イエスの見本について読むことができますが、自分たち自身が直面しているのと同じような、あらゆる問題に直面しつつも、今日においてどのように信仰を適用すれば良いのかを実証している、神の子どもたちを見ることができるなら、もっとよく理解することができ、自分たちもそんな信仰が欲しいと思うようになります。
主は私たちが、ともすると自分の目には大きな痛手のように映る何かについて、信頼するという見本になることを求められますが、常に共にいて、すべての道で守り、耐えられないような試練は与えないとも約束されています。最悪の時期にさえも、常にそこから抜け出せるよう、道を切り開くと約束されているのです。
イエスは私たちの試練をわかって下さいます。主ご自身も苦悩や屈辱や、疑念や批判や、怒りや反対や嫉妬や、軽蔑や嘘を耐え忍ばれました。うんざりするような気持ちや、眠気や、空腹感やのどの渇きや、寒さや病気に直面されました。そして軽蔑され、拒絶され、侮辱され、裏切られ、見捨てられ、排斥され、ついには拷問されて殺されたのです。
主は人が経験し得る、ありとあらゆる苦しみを味わわれました。その見本と導きによって、苦難に立ち向かい、問題の渦中で喜びを見いだしさえする方法を、私たちに教えられたのです。すべてのものに平安を見いだし、勝利する手段を与えて下さいました。命そのものというか細い糸以外は、何一つ残らなくなるまで、何度も何度も与え続けることを選ばれました。そして、最後にはその命すらも与えられたのです。栄光が欲しかったからでも、賞賛されるためでもなく、ご自分だけが私たちに与えることのできる愛を捧げることから生じる喜びゆえに、そうされたのです。イエスはこう言っておられます。
「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」—ヨハネ 20:21
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」—ヨハネ 13:34
イエスは私たちを救うために、既に究極の代価を支払われました。そして今、ご自身の御霊を通して、私たちに力をお与えになります。他の人々に対する、主の愛の見本となるための力を。主は目の前に置かれた御仕事のため、愛の内に私たちを備えられます。人生の学びの過程は、しばしば私たちの勇気を試し、困難な経験を通して私たちを教えます。それは、他の人を助けるのに必要な理解や確信や、憐れみを授けるためです。そして、主はすべての犠牲は価値があると約束しておられるのです。
「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」—ローマ 8:18
「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」—2 コリント 1:5
大きな苦しみを味わった人々による、以下の見解に耳を傾けて下さい。
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「私はこのように自問せねばなりません。もし私の人生が、問題や悲しみによって傷つけられることがないなら、どのようにしてイエスを、イエスが望まれるような方法で知ることができるだろうかと。この破綻した地球のひどい壊れ様に胸を打たれ、自分も心砕かれてすすり泣くことが一度もないなら、それに対して神が感じておられることの、一体何を理解できるだろうと。神と苦しみを共にすることが決してないなら、神の御姿を反映することなど、どうしてできるだろうかと。」—キャロリン・カスティス・ジェームズ
「不幸のどん底にいると感じる時には、こう信じて下さい。自分にはこの世でやるべきことがあるのだと。他の人々の苦悩を和らげてあげられる限り、人生は無駄ではありません。」—ヘレン・ケラー
「苦しみに関する最も興味深い事実の一つとは、自分自身の苦悩が周りの人々にも語りかけることです。この世は希望と平安を宿す癌患者に引き寄せられます。わが子を埋葬しながらも、良き父なる神にしがみつく両親の姿に、傍らに佇む人々は驚愕します。[腕がないという]障害について投げかけられた憎悪に満ちた言葉を、私が受け流し、むしろ神が自分について言われていることに思いを向けることができるのを見て、友人たちは驚きます。」—ダニエル・リッチー
「人生における神の召しに身を投じる時、あらゆるものが新たな意味や意義を帯び始めるでしょう。苦悩も含めて、自分の人生のあらゆる側面を、他の人々を神ご自身へと引き寄せる手段と見なすようになるのです。」—チャールズ・スタンレー
「『悲しみや損失や苦悩をものともせず、私たちは前進し続ける。ビルマの不毛な平原に種を蒔こうとも、シオンの丘で収穫を刈り取る。』 増し加わる試練の一つ一つが、無限の愛と憐れみによって定められていることを確信していなかったなら、度重なる苦しみを乗り越えて、生き延びることはできなかったでしょう。」—アドニラム・ジャドソン
「私はかつて考えたものです。腕を持たずに生まれてくることは、一人の人間に起こり得る内で、最も恐ろしい出来事であると。しかしキリストにあって、キリストのおかげで、私はこう言えるようになりました。今までに自分に起こった内で最悪の出来事は、今までに起こった内で最高の出来事でもあったのだと。」—ダニエル・リッチー
「クリスチャンとは、この世において神と苦しみを共にする人のことです。」—ディートリヒ・ボンヘッファー
「神の御国を促進するために何らかの行動に出るなら、キリストがその途上で見つけられたものを見つけるかもしれません。虐待や無関心や、不正や誤解や、何らかの問題を。それらを受け止めなさい。そうしない理由などあるでしょうか? あなたはそのために召されているのですから。」(1ペテロ 2:21を参照)—エリザベス・エリオット
「苦悩はある種の基盤を与えてくれます。そこで問題は、苦悩を感じている時に、自分がこの世に向けて何と言っているかということです。私は自分の信仰が、周りの状況に左右されることに甘んじているでしょうか。それとも神は、状況が思わしくない時にも、まだ善き神でいて下さるのでしょうか。神の性質と恵みの及ぶ範囲は、苦しみが訪れても変わりません。苦悩の時にも神に信頼するなら、私の人生は希望について語り、その希望は、私が見たり触ったりできる範囲を超えて広がって行くのです。
「私たちには1ペテロ 1:6–7という困難な召しがあり、それは様々な試練に遭って嘆き悲しんでいる時にも、喜ぶよう命じています。私たちはなぜ喜ぶのでしょう? 『あなたがたの信仰は、真正さが試され、… イエス・キリストが現れる時に、賛美と栄光と誉れとをもたらすものであることがわかる』からです。神の栄光のために喜んで苦しむことを厭わない姿勢は、これまで私たちの誰一人として与えたことのないような証しを伝えます。私たちは、虫にもさびにも損なうことのできない宝を与えられる、栄光に満ちた神に、人の目を向けさせるのです。(マタイ 6:19-20)」—ダニエル・リッチー
「パウロは2コリント1:3–6でこう言っています。『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父。』 神は私たちを成長させるためだけに、苦悩を経験させられるのではありません。むしろ、ご自分の子どもたちが苦悩を感じることを許されるのは、それをある目的のために用いることがおできになるからです。ヨセフが奴隷また囚人として13年も過ごすことを神が許されたのは、それによって国も彼の民も救われるためでした。初代教会が迫害されるのを許されたのは、それによってエルサレムの外に福音が広まるためでした。神は私たちが救われるように、イエスが杯を受けて苦しむことを許されました。」—スティーブン・ファーティック
「クリスチャンが苦しむ時、彼らはその結果、パウロがそうだったように、神がそこから解放して下さることによって、あるいはより意義深い例として、みずからの忍耐を表明することによって、自分たちの人生が他の人々にとって、復活の力の証明となるであろうという事実に、励まされることがあります。いずれにせよ、私たちは災いのさなかにあって、神が最終的には救い出して下さると確信し、神に信頼するよう求められています。そうすることで、神の御力が私たちの弱いところに表れるのです。」—スコット・ハフェマン
「神は、私たちが他の人々を慰めることができるよう、私たちを慰められる。神は、私たちが他の人々に憐れみ深くなれるよう、憐れみを与えられる。神は、私たちが苦しんでいる人々の傍らに親身になって寄り添えるよう、私たちが苦しんでいる時に、その傍らに親身に寄り添って下さる。神は、私たちが苦しんでいる人々をたった一人で放っておくことがないよう、苦しんでいる私たちを、決してたった一人で放っておかれることはない。」—作者不詳
「慰めがこのように広がってゆくのは素晴らしいことであり、キリストの体である教会において、もっとこのようなことが頻繁に起こるべきです。人々が自分から目を離して、神に向き直ることで力を受け、また目を他の人々に向けることで、神から与えられた慰めを与えるという形で、苦しみを良いものと換える姿を見るのは、喜ばしいことです。」—デイブ・ズリガ―
「私たちは苦しみや死や罪や灰を、回避したいと望みます。しかし、私たちは、押し潰され、壊れ、引き裂かれた世界に暮らしており、神はその世界を贖うために、来られました。私たちは神の注ぎ出された命を受け取り、神と共に苦しみ、その後他の人々のために自分自身を注ぎ出すという、大いなる特権にあずかっています。」—エリザベス・エリオット
「キリストが私たちを慰めて下さるのは、その慰めを傷ついた世界と分かち合うためです。私たちの苦悩から、慰めのミニストリーが生じ、私たちはその内を歩むことができます。私たちへの神の憐れみは、沈黙の内に押し隠されるためにあるのではなく、外に示すためにあるのです。私たちの苦悩が傷ついた世界に向けて叫ぶ時、たとえ状況が思わしくない時にも、神が栄光に満ちておられるという事実を、私たちの人生が常に歌いますように。」—ダニエル・リッチー
「あなたが、わたしが約束を果たして勝利をもたらすよう求め、また、わたしが働きかけて、一見失敗や敗北と思われるものから、何らかの方法であなたを切り抜けさせるよう求める時、傍らでそれを見ている人々の信仰は強められる。あなたが倒れ、苦闘し、たとえ証拠が見えなくても、わたしが自分の分を果たすと確信しつつ、なおも戦っている姿を見る時、彼らの信仰は強められ、物事がうまくいかない時にも、わたしに信頼するようになる。」—イエス
「慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 」—2 コリント 1:3–4
初版は2020年5月 2023年4月アンカーに掲載
朗読:キャロル・アンドリュース 音楽:マイケル・ドーリー
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