12月 17, 2023
主を喜ばせ、主に仕えることを求めているクリスチャンとして、私たちは神と神の御言葉を中心に人生を歩み、神の愛と真理を他の人々に分け合うよう求められています。イエスは言われました。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ 15:5)。仕事がうまく行ったり成果を遂げたりしたら、私たちはどのような反応を示すべきなのでしょう。もしイエスに心と人生を捧げたならば、私たちはイエスの助けと導きを求めるし、そうしてイエスが私たちを成功に導いてくださったときには、その功績と栄光をイエスに捧げたいと思うことでしょう。
神の御言葉は私達にこう告げています。「主にあがなわれた者は言え」(詩篇 107:2)。またこうも言っています。 「主について語る者よ、沈黙してはならない」(イザヤ 62:6 英語新欽定訳)。主は、主を知っていて、主を愛する子供達が堂々と声を上げ、主が彼らの神であり、力であり、助けであり、救い主であることを知らせることを望み、また期待しておられます。だから私達は、自分達が主のものであり、主の側にいて、主のために生きており、主こそ、私達が主の御心を成し遂げるのを助けて下さる方だということを、他の人に知らせるのを恥じたり、恐れたりすべきではありません。「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ 2:13)。
あなたの道を主にゆだね、主こそ、善き目的を果たすために、あなたの内に、またあなたを通して、働かれる方であることを思い起こすとき、あなたは、主が導き、あなたのためにことをなしてくださると信じることができます(詩篇 37:5)。あなたが忠実に「まず神の国と神の義とを求める」ならば、神があなたの道を導き、祝福してくださるでしょう(マタイ 6:33)。そして、すべての道で主を認めるとき、あなたは自分の人生と、主があなたを通して成し遂げてくださる善ゆえに、主に栄光を捧げるようになるでしょう(箴言 3:6)。
神の御心と目的とを真に成し遂げるためには、まず、力がどこから来るのかに気づかなければなりません。それは主に頼ることから来ます。主は言われました。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(2コリント 12:9)。
聖書には、思いあがった統治者であったヘロデ王についてこのような話があります。「定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座にすわり、彼らにむかって演説をした。集まった人々は、『これは神の声だ。人間の声ではない』と叫びつづけた。するとたちまち」(聖書はこのように続けています)「主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった」(使徒行伝 12:21-23)。
神は、ヘロデが偉大な演説をしたから、彼を打ったのではありません。ヘロデは、人々が自分のことをひたすら称賛するのをやめさせず、 それどころかその全ての栄光を自分のものとしたので、神は非常に不快に思われたのです。「彼は神に栄光を帰することをしなかったからである」。
聖書に出てくる良い王達や預言者達や神の人の話とは、何と違うことでしょうか。彼らが主にすべての栄光を与えたので、主は彼らを力強く使うことができたのです。この良い例はダビデです。彼がただの少年だった時、自分の民の敵の前に勇敢に進み出て、巨人ゴリアテとの対決の挑戦に応じました。
ゴリアテと交戦する前にダビデは、すべての人に聞こえるように、彼に向かって大声でこう叫びました。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりをもって、私に向かってくるが、私は万軍の主の名、すなわち、おまえが挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」(サムエル上 17:45-47)。そして主は奇跡を行なわれ、小さなダビデが巨人に勝利するのを可能にして下さったのです。そしてすべての人はそれが、神の行なわれた事であることを知っていました。なぜならダビデが主にすべての栄光を与えていたからです。彼は、ゴリアテを打ち負かしてしまう前でさえ、そうしたのです。
キリストに従う者として、私達は、救いの唯一の望みであり、道であり真理であり命である(ヨハネ 14:6)イエスへの信仰を宣言するよう召されています。使徒パウロが言ったように、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ 4:13)ことを私達は知っているので、自分にはできないと感じる時でさえも、信仰を証しすることができるのです。
使徒行伝には、主のために確信をもって語り、神に栄光を与える事に関する良い例があります。使徒ペテロと使徒ヨハネは、足の不自由な人のために祈りました。するとその人は奇跡的に、たちまち癒されたのでした。そこにはこうあります。「人々は皆、ひどく驚いて、彼らのところに駆け集まって来た。ペテロはこれを見て、人々を叱ってこう言った。『わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。神は御自分の御子イエスに栄光を賜った。そして、イエスの名を信じる信仰が、この人を歩かせたのである』」(参照: 使徒行伝 3:11–16)。
神の言葉にはこうあります。「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主で…あることを知ることがそれである」(エレミヤ 9:23–24)。
もしあなたに、本当に信じているものがあるなら、あなたはそれについて語り、それを自慢し、そのことを誇りとするでしょう。もしあなたの気にいっているスポーツチームや政党がすぐれていると思っているなら、あなたはそのチームや政党について話すでしょう。もし自分の仕事が良いと思っていて、それを楽しんでいるなら、そのことを話すでしょう。だからあなたが本当にイエスを信じているなら、あなたは彼のことを話すのです。イエスが言われたように、「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」(マタイ 12:34; 6:21)。
あなたは神学者や牧師や説教師、あるいはキリスト教指導者ではないかもしれませんが、自分の行くどこででも、ただ主と主の愛を認め、その事について話し、主の言葉と真実とを他の人に話すのを恥じたり、恐れたりしないことによって、主に栄光を与えることができます。物事がうまくいく時、ただ単にこう言えばいいのです。「神に感謝しよう」と。そうするなら、あなたは神に栄光を帰しているのであり、それを聞く人に対する証しとなります。信仰を分かち合い、人々にトラクトを渡す度に、あなたは忠実な証人となっているのです。たとえ「神があなたを祝福しますように」と言うだけでも、あなたは彼らに神が実在し、最高主権者であることを思い起こさせています。
しかし、もしあなたが自分に対して幾分確信がなく、自信がなく、他の人の前で主の御名を大胆に語ることなどできないと思うなら、初代教会の弟子のことを考えて、それを励ましとして下さい。有力な宗教の権威者達が、彼らを脅し、イエスのことを他の人に告げるのをやめるように命令した後、彼らは必死にこう祈りました。「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい」。彼らは自分達の弱さと恐れを告白し、助けを求めて主に呼ばわりました。すると主は答えて下さったのです。「一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(使徒行伝 4:29–31)。
イエスはこう約束されました。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…わたしの証人となるであろう」(使徒行伝 1:8)。だから他の人の前でイエスのために立ち上がり、大胆に主の御名を語るための力がもっと必要だと感じるなら、ただ、主の尊い聖霊の力によって満たして下さいと祈ればいいのです。そうすれば主はそうして下さいます。
イエスは言われました。「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ10:32)。今、イエスへの信仰に生き、信仰を分かち合いなさい。そうすればいつの日か主の前に立つ時、主がこう言われるのを聞くでしょう。「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)。
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2023年12月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
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