神はなぜ罪や苦しみを許されるのか

1月 13, 2024

Why Sin and Suffering?
May 3, 2021

オーディオ所要時間: 9:43
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ある時、私は、旅行代理店の女性と話をしていたのですが、会話を進めて行く内に、神についての話になりました。彼女はこう言いました。「私は神なんて信じていません。もし神がいるなら、今の世界にはどうしてこれ程も悲惨な出来事が起こるのでしょう? アフリカでは、どうして毎日何千人もの人々が餓死しているのですか? 恐ろしい病気がはやるのを許すなんて、それが神と言えるでしょうか? 私の一番の親友は、交通事故で足が不自由になってしまいました。それはなぜなんですか?」

そこで私は答えました。「世界にある災いをすべて神のせいにすることはできません。世界中の苦しみの多くは、人間同士の非人道的な行いや、神の掟への不従順によって起こっているのです。」

その若い女性は、しばらく何も言わず、考え込んでいましたが、それから、無神論者たちがクリスチャンを困らせようとして常に用いる、切り札とも言えるあの質問をしてきました。「でも、もし神が存在し、全能であるなら、なぜ神は悪を阻止せず、さまざまな苦しみを許しているのですか? なぜ、世界に悪が存在するのを許しているのですか? 例えば、どうして神はヒットラーを止めなかったのですか?」

私はこう答えました。「そういう質問をしたくなる気持ちはよくわかります。けれども、もし神がヒットラーを止めていたのなら、すべての人の自由意志も止めなければならなくなってしまいます。聖書には、『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている』と書かれています。[1] ですから、神は、世界中のすべての人が悪いことをしようとするたびに、いつもそれを止めていなければならなかったということになります。

「まさに天地が造られた時から、神は人の決断に割り込まなくてはならず、エデンの園でアダムとエバが善悪を知る木の実を取って食べるのを無理矢理やめさせなくてはいけなかったことでしょう。神は、自分の意志によって自由に選択するという権限を私たちに与え、善を取るか悪を取るかは私たち一人一人の決断に任せておられるというのに、私たちのそうした決断にも干渉しなくてはいけなくなったことでしょう。」

すると彼女は、「でも、神が私たち全員を善良な人間に造ってくれたら、もっと良かったんじゃないですか?」と言って反論してきました。

「確かに、もし神がロボットを望んだのなら、神はすべての人間が良いことだけをして、神を愛するようにさせることもできたことでしょう。けれども神は、私たちに自由な選択や自由な意志を与えて、私たちが神を愛することを選択できるようにしてくださったのです。もし子供たちが、強いられてやむなくあなたを愛しているのなら、あなたは自分の子供たちといても心から楽しめないでしょう?」

彼女は困惑しながら、こう言いました。「ええ、それはそうだけど、そのことが、さまざまな苦しみと何の関係があるのですか?」

そこで、私はこう説明しました。「人間は、善を行うか悪を行うか、物事を神のやり方で行うか、自分のやり方で行うかの選択をするために、この世界に存在しています。そして、そういった人間の選択こそが、現代の世界に、これほども沢山の苦しみや、悲惨な状態、苦痛、病気、戦争、経済問題などがある根本的な原因なのです。神を愛し、神に従うことを選ぶよりも、物事を自分勝手なやり方で行うことを選んできたので、その結果、人類は自分たちがした間違った決断のゆえに苦しんでいるのです。聖書に『人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある』とある通りです。」[2]

このやり取りをきっかけに、私は世界のどれだけの苦しみが人類によって引き起こされているのかを考えてみました。たとえば、これまで絶えず戦われてきた戦争によって、何千万もの人が殺され、障害を負わされてきましたが、人類はそうやって、自ら、語り尽くすこともできないほどの苦しみを引き起こしているのです。マルティン・ルターは、戦争のことを、こう語っています。「人類を苦しめる最大の疫病である。戦争は宗教を破壊し、国家を破壊し、家族を破壊する。どんな災いでも、戦争よりはましだ。」

人間の戦争は神のせいなのでしょうか? 聖書にはこう書いてあります。「あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。」[3] 戦争によって引き起こされた苦しみは、神のせいではありません。そうではなく、他人の物を破壊してまでも、自分に益や権力をもたらそうとする、人間の貪欲さや利己心、これこそが戦争を引き起こしているのです。

現代の生活様式から来るストレスや慌ただしさ、緊張は、激しい頭痛、胃潰瘍、心疾患などの心身症を引き起こすことがよくあります。第1ペテロ5章7節にある、一切の思い煩いを神に委ねなさいという忠告から、人類はまだ学んではいません。現代社会の加速するペースについていこうとするあまり、心配し、焦る心が私たちの体を病気にしてしまうのです。また、喫煙や過度の飲酒、心身に有害な薬物の摂取によって、体調を崩すこともあります。

人類が自ら苦難を引き起こしている、また別の例として、世界には食料があり余っている地域があるというのに、別の地域では毎年何百万もの人が飢えているということを考えてみてください。神は、誰も飢えることがないように、十二分に食糧を供給してくださっています。西側諸国は何億ドルものお金を費やして、過剰農産物を貯め込んだり、廃棄したり、さらには、作物を作らせないために農民に助成金を払ったりしており、人々は痩せるための体操やダイエットのためにお金を費やしているのというのに、世界の貧しい国々は飢えに苦しんでいるのです。

世界中の何千万という人が困窮し、悲惨な状態にある理由の多くは、言うまでもなく、裕福な人たちが利己的であることです。金持ちの大半は、自分の富や土地を、すべきほど他の人々に分け与えておらず、貧しい人々のために雇用を創出しようとして産業に投資することもしていません。また、貧しい人々が人並みの生活をすることができるようにと、彼らの労働や生産物に対して、適正な対価を支払うこともしていません。もし彼らがそうしているなら、必ず、皆に十分行き渡ることでしょう。主は最初からそうなることを望んでおられたからです。神は、貧しい人々が苦しむことは望んでおられないので、金持ちに、その富を貧しい人々と分け合うようにと、聖書の中で繰り返し忠告し、命じてさえおられます。

そして、信じがたいことかもしれませんが、金持ちも苦悩を味わっています。金持ちの多くは、貧しい人々を虐げたり、彼らから搾取することによって、自分の富を築いてきました。これは、他の人たちに愛と思いやりを示し、持っている物を分け与えなさいという、幸福と精神的な豊かさのための神の律法に反することなのです。それゆえに、たいていの金持ちは、罪の意識にさいなまれており、さらには、自分の財産を誰かに奪われてしまうのではないかという恐れも抱いています。

「なぜ神は苦しみを許されるのか」、それは、人生最大の質問の一つです。神の御言葉を読めば、私たちはその理由の多くを理解することができますが、天国に行って、神が見ておられるように物事を見ることができるようになるまで、完全には理解できないこともあります。

ハンドリー・モールはこう語りました。「このように悲惨な災害が起こるのをどうして神が許されるのか、それを理解するのは、私たちにとって非常に難しいことです。けれども、聞いて下さい。私は家に、母からもらった古いしおりを持っています。絹の刺しゅうがしてあって、その裏側を見ると、糸のもつれしか見えません。大きな間違いのようにしか見えないのです。きっとやり方も知らない人が刺しゅうしたのだと思うことでしょう。しかし、ひっくり返して、表側を見てみると、そこにはきれいに『神は愛』という文字が刺しゅうされているのです。私たちは今日、この出来事全体を裏側から見ているわけです。でも、いつの日か、私たちは別の観点からこのことを見て、どうしてこのような事が起こったかが理解できるようになることでしょう。」

たとえ私たちにはその理由がすぐにはわからなくとも、神は常に、何らかの目的と計画があって、災いが起こるのを許しておられます。時には、「神の道は測りがたい」[4] ものなので、私たちはただ、神に信頼しなくてはなりません。神は何をなさるにも愛の内になされ、たとえ今すぐその理由がわからなくても、後になってわかる時が来るのだと。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」[5]

最後に私たちは、神が私たちの人生における苦しみを用いて私たちの益となるようにしてくださることも忘れてはなりません。悲しみや苦しみは、人の内にある最善のもの、すなわち、他の人たちに対する憐れみ、愛、そして思いやりを引き出します。苦難はあなたを強めてくれます。他の人を力づけられるほどに強めてくれるのです。聖書にはこう書いてあります。「私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」[6] クリスチャンである私たちは、苦難を経験することによって、人間のあらゆる問題や苦しみを解決することができる、イエスという答えを、他の人たちにも教えてあげたいという気持ちがわいてくるのです。

多くの場合、苦難の経験は人々の心を神に向けさせ、それを通して、神に許しを求め、悔い改めて、自分を救って下さいと神に求めるようになります。「私は苦しまない前には迷いました。しかし、私は悩みのうちに主に呼ばわりました。すると、主はこの苦しむ者の声を聞いて、すべての悩みから救い出されました」とダビデ王が言ったように。[7] ですから、苦しみや災いは、私たちをもっと神に近づけてくれるのです。

神の御言葉は、やがて、神を愛する者たちの苦しみが終わる時が訪れると約束しています。神が、「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と。[8]

その、まったき日が来るまで、私たちはいくらかの苦しみに耐えなければなりませんが、その代償、すなわち、天国で私たちを待っている報いに比べたら、この世で私たちが味わう、つかの間の痛みや苦しみは、取るに足らないものなのです。「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と、使徒パウロが言った通りです。[9]

1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2021年5月改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ


1 ローマ 3:23.

2 箴言 14:12.

3 ヤコブ 4:1. 〈聖書協会共同訳〉

4 ローマ 11:33.

5 1コリント 13:12.

6 2コリント 1:4.〈聖書協会共同訳〉

7 参照: 詩篇 18:6; 34:6; 119:67.

8 黙示録 21:4.

9 ローマ 8:18.

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