神に祈る

11月 30, 2023

Praying to God
July 11, 2023

引用文集

オーディオ所要時間: 11:23
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今日のクリスチャンは、神が私たちの父であることを当然と思っていますが、この名が本当は何を意味するのか、立ち止まって考える人はほとんどいません。私たちは、イエスが弟子たちに「われらの父よ」と祈るように教えたことを知っているし、アラム語のアバ(「父」)は、イエスが使った言葉のうち、新約聖書で翻訳されずにそのまま記された数少ない言葉のひとつです。今となっては、このことを不思議に思う人はほとんどいません。そして、イエスの時代のユダヤ人たちや、イエスご自身の弟子たちでさえ、イエスの教えに困惑していたと知って、驚く人が多いのです。…

イエスが神をご自分の父であると主張したのは、安息日に関する論争のときのことでした。イエスは、安息日に癒しを行うことは適切であると主張しました。なぜなら、イエスの言葉を引用すれば、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ 5:17)。つまり、神は7日目に創造のわざを終えて休まれましたが、神の維持のみわざ、最終的には贖いのみわざはまだ続いていたのです。さらにイエスは、父が継続して行われているみわざと、ご自身の宣教活動とを関連づけられました。…

クリスチャンが神を父と呼ぶのは、イエスが弟子たちにそう呼ぶよう教えたからです。イエスがそうしたのは、神が彼らの創造主であることを強調するためではなく(もちろん創造主なのですが)、神が彼らの贖い主だからです。イエスは父なる神と独特な関係を持っておられたので、それを弟子たちと分かち合いたいと願われました。地上におられた間、イエスはこのことをかなりはっきりと語っておられました。こう言われたのです。「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ 14:9)。「わたしと父とは一つである」(ヨハネ 10:30)。 …

私たちは、父に祈るよう勧められており、そうすることができます。なぜなら、御子はその死と復活において、私たちを御父と結びつけてくださったから(ガラテヤ 2:20)です。この行為によって、イエスは私たちをご自身の兄弟として結びつけてくださいました。そこにある違いは、イエスは生まれながらにして神であり、父の罪なき御子であるのに対して、私たちはイエスによって養子とされた罪人であるという点です。イエスは復活の後、マグダラのマリヤに、弟子たち(このときには彼らを兄弟と呼んでいます)のところに行って、これから起こることを伝えるようにと言われました。「わたしにさわっては[すがりついていては]いけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」(ヨハネ 20:17)。 —ジェラルド・ブレイ [1]

神の人格性

福音書のあちこちでイエスは神を父と呼び、主の祈りでは弟子たちに、神を父と呼ぶように教えておられます。神を父と呼ぶことを不快に思う人もいます。それが家父長制度(父権制)の概念や女性の従属を支持すると感じるからです。そして、神を父と呼ぶ箇所をすべて削除するように求めています。チャールズ・タルバートの著書『Reading the Sermon on the Mount(山上の説教を読む)』に、神がなぜ父と呼ばれるのかについてのいい説明がありました。そこから要約します。[2]

今日のキリスト教界において、宗教言語に関する二つの見方があります。一つは関係的視点で、もう一つは政治的視点です。関係的視点からすれば、宗教言語は神の民と神との間に継続する関係に起因します。それは、人間同士の関係に関する言葉と似ています。神との関係について語る際、他の人との関係について使用するような言葉と似通った言い方をすることができます。

宗教言語を政治的なものとしてとらえるなら、宗教言語は、地上の人間関係の仕組みが天のカンバスに投影されてできたという考え方になります。そこで、人間の社会秩序が変わるなら、それに応じた変更が、天の世界について語る言葉にもなされるべきだとされます。この見方によれば、神が父のように男性的な表現で語られる場合、それは人間のレベルでの家父長的社会制度を天国に投影したものです。神のために父親的な言葉が使われるのは、聖書が書かれた時代の家父長制度の投影だということです。聖書は男たちによって書かれているので、神も男性として描かれているわけです。

宗教言語を関係的なものとしてとらえると、神は性別を超越しており、男性でも女性でもないと考えられます。しかし、聖書では、性別をあらわす言葉で神が語られているし、女性をあらわす言葉で語られている場合もあります。「今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。… 女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」(イザヤ 42:14; 49:15; 66:13)。

神が女性をあらわす言葉で語られる場合、それは常に二つのものを比べる直喩で表現されています。神は母と比べられていますが、母と呼ばれたことはありません。

聖書の他の箇所では、神は男性をあらわす言葉で語られていますが、これもまた直喩です。「主は勇士のように出て行き、いくさ人のように熱心を起し…」(イザヤ 42:13)、また、次のように隠喩(メタファー)の場合もあります。「主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです」(イザヤ 63:16; 64:8)。

聖書では、神が男性と比べられること(直喩)もあれば、父と称されること(隠喩)もあります。イエスは「アバ、父よ」と祈られました(マルコ 14:36)。

聖書では、神が父のようであり父と呼ばれてもいるのに、母のようだと言われることはあっても母と呼ばれないのは、なぜでしょうか。主に二つの理由があります。

一つは、被造物との関係において、神がどのような方であると理解しているのかに関わってきます。全能であり被造物を超えた存在である神は、無からすべてを創造されました。それゆえ、宇宙とは別個の存在です。ある宗教や信念体系は、それとは違った見方をしており、神と被造物は同じものであるか、あるいは被造物は神の一部であると見なしています。全般的に言って、神は被造物と別個の存在ではないとする信念体系は、汎神論の部類に入ります。

創世記から始まって聖書全体に至るまで、神は被造物を超越し、独立した存在であると書かれています。聖書で神が「母」と呼ばれたとしたら、神の超越性に関して誤解が生じたかもしれません。古代において創造者を「母」と呼ぶならば、創造は出産過程であると解釈され、宇宙とその中にあるものすべては神の一部であるということになります。そうなると、宇宙は神によって創造された(一神論)というよりも、宇宙にも神性がある(汎神論)ということになってしまいます。

神は旧約聖書の著者たちに、ご自身を霊として、つまり男でも女でもない存在としてあらわされました。しかし、ご自身を隠喩的に男性と称されたのは、神の「他者性」を保ち、かつ、この世は創造されたのではなく「生み出された」のだと理解されることを防ぐためでした。このことによって、私たちは、神と被造物の関係を間違って理解することなしに、人格のある存在としての神と関係を持てるのです。

神を父と呼ぶもう一つの理由は、イエスのなされていたことが元になっています。福音書で、イエスは父としての神「について」語っているだけではなく(マルコ 13:32)、父としての神「に対して」語っておられます。イエスは、神との関係について、子どもたちを気にかけ、深く愛している愛情深い父という概念を用いて述べられました。そして、弟子たちにもご自身の父との愛情深い関係を結ぶように勧められたのです。

また、イエスは、神は霊である(ヨハネ 4:24)、つまり性別はないということをはっきりとされましたが、神との関係を示すのに、父という概念を使われました。神をご自身の父と呼ばれ、弟子たちにも、神を父と呼ぶように勧められました。しかしこれは神の人格性を知らせるためであり、性別の発表ではありません。父親との関係がよくなかったために神を父と呼ぶのが難しい人は、神を呼ぶ他の言い方を用いることができます。たとえば、主、神、全能者、創造者などです。—ピーター・アムステルダム

アバ体験

イエスは人間としての旅路の中で、どのイスラエルの預言者も夢見たこともなければ、あえてしたこともないような方法で神を体験されました。父の霊はイエスの内に宿り、神の呼び名を与えられました。そして、それはイスラエルの神学と世論にスキャンダルを起こしたのです。それはナザレの大工の口から漏れ出た、アバという名でした。

ユダヤ人の子供たちは、父親のことを言う時に、この親密な口語体の言葉を使っており、イエスご自身も養父ヨセフに対してその言葉を使っていました。しかし、神の呼び名としては、ユダヤ教だけでなく、世界のどの偉大な宗教においても前代未聞でした。ヨアヒム・エレミアスはこう書いています。「神への呼びかけとしてのアバは、… イエスが最初に使ったことが確認されている言葉です。私たちは、何か新しく驚くべきことに直面しています。ここに福音の偉大な新しさがあるのです。」

愛する御子イエスは、この経験を自分のためだけに取っておいたりされません。私たちにも同じように親密で解放的な関係を共有するよう勧め、呼びかけておられます。パウロはこう書いています。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ 8:14–16)。…

私がイエス・キリストから受けとった最大の贈り物は、このアバ体験です。「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」(マタイ 11:27)。—ブレナン・マニング [3]

2023年7月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ


1 https://www.thegospelcoalition.org/essay/god-as-father.

2 Charles H. Talbert, Reading the Sermon on the Mount (Grand Rapids: Baker Academic, 2004), 113–15.

3 Brennan Manning, Abba’s Child: The Cry of the Heart for Intimate Belonging (Tyndale House, 2014).

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