10月 23, 2023
ティム・ケラー牧師にとって、イエス・キリストの復活は、いつの日か善が悪に勝利すると、漠然と信じること以上のものです。それは、自分自身の死の必然性と向き合う彼に、希望と平安と慰めをもたらす、人生を変えるほど力強い真理なのです。
(注:ケラー氏は、復活が持つ変容の力に焦点を当てた著書『Hope in Times of Fear(恐怖の時代における希望)』を執筆していた2020年5月に、すい臓がんと診断されました。)
2021年4月、ケラー氏はクリスチャンポストにこう語りました。「自分はすぐ近いうちに死ぬかもしれないとわかると、人は基本的に自分が死ぬという事実に背を向けて生きているということに気づくものです。突然、自分がすぐに死ぬかも知れないとわかったとき、人はこう自問せざるをえません。『自分にはそのための信仰があるだろうか? イエス・キリストの復活は本当にあったことで、イエスへの信仰を持って死ねば、自分もその復活にあずかるのだと信じているだろうか?』
「今私は復活についての本を書いていますが、自分がいつか死ぬということを半分しか信じていなかったことに気づきました。そして、思い返してみると、ある意味、私は復活についても、半分しか信じていないことに気づいたのです。知識としてはわかっていても、心の奥底では信じ切っていませんでした。私は、復活に対して、もっと大きく、深い信仰を持つ必要があると気づきました」。
その後数ヶ月間、癌の治療を受けながら、ケラー氏はイエス・キリストの復活の歴史的証拠に目を向けるとともに、祈りと聖書に浸り、心の中で復活を現実のものとしてくださるよう、聖霊に求めるという、「知的な作業と感情的な作業」の両方を行いました。
「漠然と信じていたことを心の中で実感し、実存的かつ経験的に復活を知り、確信を深めるのに、数ヶ月かかりました。もし、私たちが神の言葉の真理を喜んで受け入れ、毎日毎日その真理に浸り、それを心の中で現実のものとしてくださるよう聖霊に求めるなら、聖霊はそうしてくださるのです」。
ほとんどの人は死に背を向けて生きていると、ケラー氏は断言します。しかし、自分自身の死と霊的な現実に直面することで、地上での時間の見方が変わり、復活が持つ変容の力が大きくなるのだとのことです。
「地上の事柄はそれほど重要ではなくなります。それは、私たちにとってあまり重要ではありません。幸せになるために、そんなものは必要ないと気づくのです。そう確信すると、かえってそういったものをもっと楽しめるようになります。私は、神や天国を地上の事柄と置き換えてしまうようなことはしません。天国こそが、私の心を本当に満足させられる唯一のものですから」。
ケラー氏は、1世紀前の賛美歌を引用して、こう語りました。「私たちは、この地上のものが 『神の栄光と恵みの光に照らされて、不思議なほどかすんでいく』には、神の現実を真に霊的に経験しなければならないことに気づくのです」。[1]
[2022年5月] ケラー氏はクリスチャンポストに、何が起ころうとも、「どんなことにも備えができています」と語りました。
「将来どうなるかはわかりません。数ヶ月ではなく、数年残されているように、また、引き続き化学療法の効果が出るように祈ってください。でも私たち[夫婦]は、神が私のために決めてくださることなら何でも受け入れる覚悟はできています。霊的に備えができているのです」。
さらに、こう付け加えています。「私はイエス・キリストの復活が実際に起こったことを知っています。そして、私が死ぬとき、私もその復活にあずかるのです」。[2] —クリスチャンポスト
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イエスの復活は、死が終わりではないことを意味します。私の肉体は土の下で朽ちているとしても、父なる神によって死者の中からよみがえらされたイエスが、私に永遠の命を与えてくださることを意味するのです。最終的には、私たちの体も死者の中からよみがえると、私たちクリスチャンは信じています。
そして、イエスは死んでおられないので、人々は今日、イエスに出会うことができます。個人的な関係を通してイエスを知ることができるのです。私は、災難の瀬戸際から平和と意義と喜びに導くために、イエスが自分の人生にどんなことをしてくださったかを証言できる人々を、大勢挙げることができます。主は人々を良い方向へと変えてくださるのです。—ラルフ・F・ウィルソン
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そのビジョンはほんの数秒しか続きませんでしたが、大きな印象を残しました。友人と話していたとき、突然、未来を垣間見たのです。その中で、私たちは抱き合って笑い、自分たちの人生について話していました。私たちは天国にいたのです。このようなことは、それまでも何度かありました。あるときは親しい友人と、またあるときは会ったばかりの人といました。いずれの場合も、天国での友情は現世での友情よりもずっと深く、有意義で、もっと長く続くものだという、深い感覚が残りました。
そう考えると、とても慰められます。おそらく、私は現在の状況で孤立し、孤独を感じているからでしょう。私はいつも社交的で、友達も多く、友情はいつも私にとってとても大切なものでした。しかし、線維筋痛症は、どんなに社交的な人をも世捨て人にするようなところがあります。この神経障害に伴う筋肉の痛み、疲労、睡眠障害のせいで、体調が優れず、友だちと出かけたり、パーティーに参加したりすることができません。具合が悪くて電話で話すことさえできないことだってよくあります。そもそも、こんな孤立した世界に住んでいる私が、一体何を話せばいいのでしょう。
病気になる前にボランティア活動で出会い、助けてあげた人たちはどうでしょう。今も私のことを覚えているでしょうか。彼らは私の祈りに感謝し、その祈りは変化をもたらしたのでしょうか。私の友情は今でも彼らにとって意味があるのでしょうか。あの年月の後で何か残ったものはあるのでしょうか。暗い部屋で一人横たわりながら、私は自問自答してきました。
しかし今、この一連の小さなビジョンを通して、この人生は本当に束の間のものであり、今の状況がどうであれ、いつの日かこの友人たちと私は天国の至福の中で再び一緒になるのだということが、もっと理解できるようになりました。まるで昔のようになるでしょう。ただし、そのときには、別れも痛みも悲しみもない、完璧な世界になるのです。
そして何よりも素晴らしいのは、他の誰よりも私たちを愛し、理解してくださる方、私たちのために生きて死んでくださり、私たちが永遠にその愛の中で共に生きるために、再びよみがえられた方、究極の永遠の友、イエスと顔を合わせ、心を通わせることなのです。—ミスティ・ケイ
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「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」—コロサイ1:12 新改訳第三版
この相続分とは何なのか。
それは涙のない状態。 神ご自身がすべての涙を拭い去ってくださる。今、神は涙を瓶に入れ、その時には、涙の流れを止められる。
しかし、それは場所でもある。天の「都」がある。これは、地域性、社会性、安全性を示唆している。そこには甘美な交わりがある。
そこは、良い羊飼いである方のすべての羊が安全に過ごせる 「囲い」。彼らをそこに連れてきた方が、彼らを守ってくださる場所。
そこは「王国」。そこで神の栄光が現される。
そこは「祝宴の場」。そこで偉大なる与え手の恵みを享受する。
そこは「園」。エデンの園であり、パラダイス。不滅の新鮮さの中で、最も美しく香り高い花が咲き誇る。
それは光に包まれた相続分である。—キャノン・マネー牧師、一部編集
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ここにあるのは束の間の命
束の間の悲しみ、束の間の思いやり
そこには、終わりのない人生
涙のない人生がある
悲しみは喜びに変わる
そのような喜びを
人の声は発することができず
人の心は知ることができない
肉体の弱さの後には
この世の夜の後には
嵐と旋風の後には
静寂と喜びと光がある
そして今、私たちが信頼している方を
その時私たちは見て知るだろう
主を知り、見る者は
主を自分のものとする
朝は目覚め
影は消え去る
真に忠実なしもべたちは皆
日のように輝くであろう
私たちの王、神、受くべき分である方が
恵みに満ちてそこおられる
そのとき私たちは永遠に見るだろう
そして、顔を合わせて礼拝するだろう
—モルレーのベルナール(ジョン・M・ニールによる英訳より)
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行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。—ヨハネ14:3
2023年5月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:マイケル・ドーリー
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