「時間」についての視点

9月 11, 2023

Perspectives on Time
April 20, 2021

引用文集

オーディオ所要時間: 11:38
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昔からよくある質問に、こんなものがあります。「今日が人生最後の日だとしたら、どうしますか?」

この質問は、モチベーションを高める数多くの本やセミナー、講演でも尋ねられています。言い方が違うこともありますが、コンセプトは同じです。「毎日を人生最後の日のように生きなさい。」 残念なのは、しばしば何度も繰り返されるこの質問の意味がすぐに見失われてしまうことです。

また、これは答えるのが難しい質問でもあります。少なくとも、実際あなたは次の日に死ぬわけではないのですから。多くの人は、最後の日に何か良いことをしたいと言います。大切な人たちと連絡を取ったり、誰かを助けたり、過ちを正したり。誰かをゆるしたり、あるいはゆるしを求めたり。あたかも、多くの人は人生最後の日を「つぐないの日」として見ているかのようです。人生でやり残したことを埋め合わせる日なのです。

ここから学べるのは、最後の一日に物事を正す必要のない生き方をするよう努めるべきだということです。イエスはご自分の人生最後の日に直面した時に、その手本を示されました。イエスは地上での人生が終わりに近づいているとご存じでした。地上での任務は終わりに近づき、もうすぐ裏切られ、処刑されると知っていたのです。では最後の24時間、主はどのように生きたのでしょうか?

イエスは弟子たちと食事を共にし、特別な時間を過ごされました。弟子一人ひとりの足を洗って温かく迎えました。それは大抵、最も身分の低いしもべがする仕事でした。イエスはかがんで彼らの足を洗うことによって、弟子たち一人ひとりに大きな愛と謙虚さを示しました。主ご自身が彼らのしもべになられたのです。[1]

主は裏切りに遭いましたが、報復はしませんでした。不当な扱いを受けましたが、腹を立てませんでした。最も親しかった者からも背を向けられましたが、怒りませんでした。主は不当に訴えられ、屈辱を受けましたが、黙して口を閉じたままでした。[2]

主は常に正直でした。最初はサンヘドリン(ユダヤの最高法院)、それからピラトという、裁判官たちの前に引き出された時、彼らは単刀直入に「あなたは神の子か?」と尋ねました。イエスは真実を回避することで多くの痛みや苦しみから逃れることができたのに、どんな代価がかかろうと真実を語りました。[3]

主はゆるしに満ちていました。鞭打たれ、嘲笑され、ツバを吐かれ、そして、十字架にかけられる場所まで通りを引きずり回された後でも、「父よ、彼らをおゆるしください」と言いました。自分を拷問する者たちの上に天から炎と稲妻を呼び下ろし、神の御子を苦しめたことで彼らを呪うこともできたというのに、自分を嘲笑し、侮辱した相手をおゆるしになったのでした。[4]

主は思いやりに満ちていました。十字架にかけられている苦痛にも関わらず、自分の母親がちゃんと世話されるよう確かめました。また、主の横で死にかけている強盗の言葉に耳を傾け、死に際に慰めを与えました。イエスはご自身のことや苦しみだけを考えるのではなく、他の人のことや、その幸せを考えたのでした。

イエスの最後の日の生き方は、それまでの全生涯の生き方となんら変わりありません。イエスは毎日を最後の日のように生きられました。正直さや謙虚さ、愛、ゆるし、親切は主の性質そのものだったからです。ですから、主はそのような資質を表されたのです。毎日をあなたの人生最後の日のように生きるというのは、あなたの時間やエネルギーを大切なことのために費やすことです。時と共に過ぎ去るものではなく、永遠に続くもののために。—マリー・ストーリー

新しい観点という贈り物

数日前ラジオを聞いていると、クリスチャン音楽界では有名なティム・ティモンズが話していました。10年ほど前、彼は手の施しようのないガンにかかっていることを知りました。インタビューで彼が話した言葉に、私はとても感銘を受けました。「不治のガンや、私たちが遭遇する様々な悲しみからもらえる贈り物は、『新しい観点』です。そして、新しい観点は、与え続けられる贈り物なのです。」

どうしてガンが「新しい観点」という贈り物をくれるのでしょうか。おそらく、大切なものとそうでないものがはっきりわかるようになるからでしょう。自分の人生は他の人よりも短いことがわかっています。「人生があと1年か2年しかないとしたら、これは大切だろうか?」という質問が、きっといつも心の中にあるのだと思います。

死が間近だと常に痛感させられることで、何が大切で何が大切でないかがはっきりわかるのです。どれだけお金を稼ぐか、どれだけ自分が美しいかといった、一見大切に思えることはあっと言う間にその価値を失い、誰と一緒にいて何をしているのかといったことが重みを増すのです。人生を一変させる病気が何をもたらすかは、どんなに想像はしてみても、完全に理解することはできません。けれども、私は地上での人生は限りがあるかのように(実際そうです)生きるようベストを尽くし、人生と、愛する人たちとの楽しみを存分に味わいたいです。

私が自分の直面していることについて新たな視点を持つべきときには、ダビデ王が悩みのときに祈ったこの言葉を口にします:「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて わたしの及びがたいほどの高い岩に のぼらせてください。」[5] 岩の上に立つと、下ではまったく見ることができなかった異なる光景や展望が開けます。

ダビデ王がしたように、私たちも主に新しい視点を求めることができます。たとえ新しい視点があったとしても、まだ完全に把握したり理解したりできないことがあるでしょう。地上にいる間は鏡におぼろに映ったものしか見えないかもしれません。[6] けれども私たちには、いつの日か、私たちが神に知られているように、私たちも完全に理解し、知るであろうという約束があります。その日、すべてが完璧に意味をなすのです。—マラ・ホドラー

今がそのとき

最近『アバウト・タイム〜愛おしい時間について』という映画を見ました。家族を持つある男性が過去に戻って、間違いを正したり、もう一度その時期をやり直せるという映画です。過去に戻る能力を持つことの利点は、きっと誰でもわかると思います。間違いを正すこともできるし、下した決断を変えたり、さらにはぶざまな言動をしたときの大失態を撤回することもできます。

残念なことに、私たちにはそんな能力はありません。その日その日を一度しか生きることができまません。しかし、毎日がどれだけ貴重であるかを、時々忘れてしまうのです。日常の問題やストレスによって、自分たちが持つ素晴らしい祝福を締め出していることがよくあります。たとえば、友情や家族、経験がそうだし、永遠に失うことがない思い出を毎日築いているという事実もそうです。

私たちが何を重んじるかは、しばしば視点の問題でもあります。私たちはいつも手に入るものや豊富にあるものの価値に気づかないことがよくありますが、その概念は「時間」にも当てはまるのではないでしょうか。仕事や実生活の予定がぎっしりになった時や、病気や事故で時間がすっかり奪われた時に初めて、ここでの時間がどれほど貴重であるかということに、もっと気を留めるものです。

詩篇 90:12 にはこうあります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」

『アバウト・タイム』で、父親は息子に同じ日を2回生きるようアドバイスします。最初はまわりの世界がどれほど優しいかに気づかないほど、あらゆるストレスや心配を抱えながら過ごし、2度目は立ち止って気づく時間を取るよう勧めました。まわりの人を愛し、美しいすべてのものを楽しむようにと。残念なことに私たちにはタイムトラベルで過去に戻るという贅沢はできませんが、そこにあるすべての素晴らしいものと私たちへの神の慈しみに気づきつつ、1回目の一日一日をフルに生きるよう努めることができます。

聖書で、イエスは「愚かな金持ち」についての短い話をされました。彼は富をすべて倉に溜め込み、そこに入りきれないとわかると、全部自分のために取っておけるよう、新たにもっと大きな倉を建てようとしました。神はそれを喜ばれなかったので、彼が死ぬ夜にそのことを告げ、死んだ後それらの富は誰のものになるのかと尋ねました。[7] 他の人たちや神と分かち合うのを利己的に拒んだ富のうち、彼は何を持っていくことができたでしょうか? 何も持っていくことはできませんでした。

もう一人の愚かな金持ちについてのジョークを思い出しました。この金持ちは全生涯を費やして金儲けに徹したので、それをいくらか天国に持っていけるよう、神に嘆願したのです。神は彼の愚かさにくすっと笑いましたが、その願いを聞き入れ、大切なものを1つ選んで持ってくることを許可しました。金持ちは財産を全部売り払って、最も値打ちのある金の延べ棒を幾つも買って、それを持っていくことにしました。金持ちが喜び勇んで天国の門に着くと、聖ペテロが出迎え、「その重いスーツケースの中身は何か」と尋ねました。金持ちは、神との約束を説明しました。ペテロは好奇心から、金持ちに、何を選んだのかと尋ねました。きっとものすごく特別なものにちがいありません。金持ちは誇らしげにスーツケースを開け、光り輝く金の延べ棒を見せました。するとペテロは驚いて、大きな声で言いました。「道路の敷石を持ってきたのかい?」

天国の黄金の通りについては脇に置くとして、この話は最終的に何が本当に大切なのかを思い起こさせてくれます。マザーテレサはこう言いました。「昨日は過ぎ去りました。明日はまだ訪れていません。私たちにあるのは今日だけです。さあ、始めましょう。」—ニーナ・コール

若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
2021年4月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク音楽:マイケル・ドーリー


1 ヨハネ 13:5.

2 ルカ 22:45–71.

3 ルカ 22:66–71.

4 ルカ 23:34.

5 詩篇 61:2.

6 1コリント 13:12.

7 ルカ 12:16–21.

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