自分の弱さを受け入れる

9月 3, 2023

Own Your Weakness
April 14, 2021

ウィリアム・B・マグラス

「競争に負けるのは不名誉ではない。不名誉とは、負けることを恐れて競争しないことだけである」。[1]

この世の文化は、勝つことや、スポーツや趣味、職業でNo.1になることの重要性を過度に強調する傾向があります。この、昔のことわざは陳腐に思えるかもしれませんが、的を射ています。「肝心なのは勝ち負けではなく、試合でどうプレーするかだ」。人が神の教えにかなったゴールと永遠の真理に到達しても、この世の脚光を浴びたり、トロフィー獲得者の列に立ったり、セレブたちの間で賞賛を浴びることはないかもしれません。神に従うことは孤独な道かもしれませんが、それでも豊かな祝福に満ちているのです。

聖書では、主要な登場人物の全員ではないとしても、そのほとんどが、神の教えにかなった目標に忠実でありながらも、生涯を通じて何らかの敗北、屈辱、遅滞に遭っているようです。彼らは皆、何らかの形で人間の弱さを見せているようです。私たちは、弱く無力なときに、神の強さが私たちの中でもっとよく働くことができるとわかるのです。

聖書の中で、自分の弱さを受け入れるというこの原則を教えているのは、使徒パウロです。彼は確かに多くの長所を持っていましたが、明らかに主は彼に「肉体のとげ」を与えられました。パウロは、そのとげを癒してくださるように、あるいはそのとげから解放してくださるように3度祈ったのですが、神は彼にこう言われました。 「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。そして、パウロはこう断言するのです。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。[2] パウロは自分の弱さのとげが何であったかを正確には語らなかったし、おそらくそれについてあまり語ったり、他人の前で自分を卑下して歩いたりしなかったと思いますが、主の御前にそれを認め、弱さの中のこの謙遜がどれほど重要であるかを主から学んだのは確かです。

創世記37章から50章にあるヨセフの物語では、ヨセフは兄弟のうちで一番上の立場に立つ夢を見ます。おそらくは、それが有意義な人生を送りたいという願望を高めたのでしょう。もしかしたら、それが彼を少し高慢にもさせたのかもしれません。その時、ヨセフの実際の訓練が始まりました。最初に大きな失墜から始まり、それは完全な敗北のように見えました。私たちもまた、神の教えに沿った願望をかなえようと努めているにもかかわらず、夢が実現しないことで、ヨセフのように敗北を味わい、失望を経験するかもしれません。「神の上へ行く道は下に下がる道である」という言葉通りです。

ダビデ王もその一例です。彼の人生における重大な過ちと長期に渡る苦闘によって、主との関係が深まり、かつて書かれたうちで最も美しい歌や祈りが書かれることになりました。ダビデ王の悩みは間違いなく彼の人格にも磨きをかけたのです。そして最後には、彼は非常に賢明で神を畏れる王として統治したのでした。

聖書は人間の弱さについて頻繁に言及しています。ヘブル11章に登場する信仰の英雄たちに関しては、「弱いもの」が強くされ」た、と記されています。ティム・ケラーはこう言っています。「神はしばしば私たちの悩みを用いて、私たち自身の欠点から救い出し、偉大な者としてくださる」。[3]

神は、弱く、もろく、何かの面で不十分だと思われている男女を用いることで知られています。神は、彼らの壊れた夢という灰から喜びと美をもたらすことができます。ですから、もし私たちの人生の、弱く、間違いを犯し、失敗した面があるならば、私たちはその弱さ、失敗、欠点を受け入れていいのです。そしてそれと同時に、それに対する神の赦しを受け入れることができるのです。自分の弱さを隠そうとしたり、ごまかそうとしたりするのではなく、パウロのように、神がその弱さがあるようにし、赦し、そこから善を引き出してくださることを私たちは知っているので、弱さを誇ることができます。神のうちにとどまり、委ね、正直でいるときには、神が私たちを祝福し、神のご計画に従って用いてくださると信じることができるのです。[4]

ダイビングの事故で17歳のときに下半身不随になったジョニー・エレクソン・タダの人生と言葉は、クリスチャンがいかにして、苦しみ、弱さ、苦難に向き合うべきかを明確に物語っています。彼女はこう語ります。

[他の人たちは]首の骨を折ってはいません。心が折れていたり、家が壊れていたりするのです。… 苦しみがあなたの正気を引き裂き、感覚も麻痺し、血が流れていた時のことを考えてみてください。その時あなたもまた、「神様、これが御心なのですか」と尋ねるのです。

私はスティーブ・エステスから名言をもらいました。「ジョニー、イエス・キリストのことを考えてごらん。イエスはこの世で一番神に見捨てられた方だ。おそらく悪魔はこう思っただろう。『神の御子を止めてやる。贖いの馬鹿げた話はもう終わりだ』。しかし、神は、その悪魔の企てを阻止し、天国の門を開いて、望む者が誰でも入ってこられるようにされた! 神はいつだって、ご自身の目的を果たし、達成するために、悪魔の企てを中止される。… 神は、ご自分が愛しておられることを成し遂げるために、ご自分が憎んでおられることが起こるのを許される。そして天国と地獄は、結果的にまったく同じことに関わることになるけれど、その理由は異なる。神は全てを御心に従って行われるんだ」。[5]

また、これはドロシー・セイヤーズの言葉だと思います。「主は、悪から、私たちにとってプラスとなる善と、ご自身にとっての栄光とを導き出してくださる」。つまり、主はそれを良いものに引き換えてくださるのです!… 命の神は、死を甘受することによって、死に打ち勝つことのできる唯一のお方です。ですからもはや死にも苦しみにも勝利はありません。キリストは、私たちの救いのためだけでなく、私たちを聖別するためにも、それに意味を与えてくださいました!… 私は、神による宇宙の偶然の渦中にいるのではありません。私の苦しみは救済されるのです! 私は孤独ではありません。… すべては私の救いと聖別のためです。… 神は、首の骨が折れても、心が折れても、家が壊れても、私たちをイエスのもとに駆り立てるために、それらが牧羊犬として行動することを許されます。私たちは、神の力はいつだって私たちの弱さのうちに最もよく現れることを知っているので、自分の弱さを受け入れることができます。… 神はご自身の喜びと私たちとの親密さを、ご自身のやり方で分かち合ってくださるのです。

1コリント12:22は、キリストのからだの中で最も弱い肢体が、かえって必要な存在であると教えています。また、1ペテロ2:21にはこうあります。「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」[6]


1 映画 The Art of Racing in the Rain (邦題:エンツォ レーサーになりたかった犬とある家族の物語)より

2 2コリント 12:9.

3 Timothy Keller, The Songs of Jesus: A Year of Daily Devotions in the Psalms, Sept. 24 (New York: Penguin, 2015).

4 1コリント 1:26–31; イザヤ 57:15, 61:3.

5 エペソ 1:11.

6 講話より抜粋:The Theology of Suffering by Joni Eareckson Tada (containing quotes from Steve Estes and Dorothy Sayers).

Copyright © 2024 The Family International