8月 11, 2023
聖書は、神が私たちを愛しておられると教えていますが、同時に、神は愛であるとも教えています。第1ヨハネ4:7-9はこう示しています。「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」。
新約聖書が書かれているギリシャ語の原語には、愛を表す単語が複数あります。アガポというギリシャ語は第1ヨハネ4章で使われている言葉で、しばしばアガペーの愛とも呼ばれています。これは無条件の愛を指す時に使われています。この神の愛は無限です。
神は愛を与えるばかりか、愛の源でもあります。万物の創造主(創世記 1:1)である神は、愛を創造された方です。私たちが愛することができるのは、神の愛ゆえです。1ヨハネ 4:19はこう述べています。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」。愛としての神の最大限の表現は、御子イエス・キリストを通してなされました。神は私たちを創造し、私たちを支え、イエスを通して私たちに御自身を現されたのです。…
愛に関する聖書の箇所で最も有名なのは、第1コリント13章です。この聖句には、私たちに対する神の愛の多くの側面を示す、詩的な言葉で表現された神の愛の姿が描かれています。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(1コリント 13:4–8)。
さらに、ヨハネ 3:16 はこう教えています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。神は、御子イエスを通してのご自身の愛が、信じる者たちに神と共に永遠の時を過ごすための機会を与えることを明らかにされました。…
聖書はまた、私たちが神の完璧な愛を受けるに値することなど何一つしていないことをも明らかにしています。ローマ 5:8には、「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」と書かれています。イエスは、私たちが失敗すると知っていた時でさえ、また私たちが生まれる前にさえも、究極の愛の表現としてご自分の命を捧げられのです。
神は愛です。神は愛を創造し、神を愛するようにと私たちを創造し、私たち一人ひとりに愛の手を差し伸べてくださいました。私たちへの課題は、神の大いなる愛を受け入れて(エペソ 2:8–9)、今日生きる中で(ヨハネ 10:10)そして永遠に(ヨハネ 3:16)、神の愛を経験することです。—CompellingTruth.org [1]
愛とは、さまざまな時代を通して多くの意味を持ってきた言葉です。数え切れないほどの作家、映画監督、芸術家たちが、愛の概念を伝えようと最善を尽くしてきました。同じ定義をしている人はほとんどいませんが、根底には一つの概念があります。愛とは感情であり、行動です。愛とは、ある人が他の誰かへの感情を抱き、その人のために行動することです。キリスト教の信仰においても、愛にはさまざまな特質があります。第1コリント 13章は、その章全体が愛という概念にあてられています。この章は、愛は希望よりも偉大であり、驚くことに信仰よりも偉大であるという概念で締めくくられているのです。…
聖句で愛を表現する時、その言葉は私たちの話し方、行動、他の人に対する考え方を表現するために使われます。しかし聖書では、愛は決して人間関係だけに限定されてはいません。事実、聖書は、私たちが他の人を愛する理由、愛を理解できる理由は、神が最初に私たちを愛してくださったからだと教えています。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」(1ヨハネ 4:19)。…
エデンの園以来、神はご自身に従う者たちに愛と支えを示すことで、人類のために行動してきました。エデンからの追放(創世記 3章)のような罰もありましたが、神は堕罪以降も、人々との関係を維持してこられました。なぜでしょうか。
その答えは、神の愛と、聖書の中で神が人類のために行動されるその後のすべての物語を見れば明らかです。これらの出来事は、最終的にキリストの再臨において頂点に達します。神が人類の人生において不変の存在であり続けたように、私たちもまた、継続的に互いに愛を示すことになっています。ヨハネは、神を愛しながら他の誰かを憎むことはできないと述べています(1ヨハネ 4:20)。
私たちの堕落した性質にもかかわらず、神が時の初めから私たちを愛することを選ばれたのだとしたら、なぜ私たちは今の時代に、たとえ傷つけられたとしても、その人を愛さないことを選べるでしょうか。言うは易く行うは難しですが、ヨハネは「神は愛である」と明言しています。さらに、私たちは神に近づく時、愛のうちにとどまり、神に近づく時、神の愛は私たちのうちにあるのだということも語っています(1ヨハネ 4:16)。神が愛をもって私たちに接してくださるのと同じように、私たちもそのように他の人々に接するよう努めなければなりません。—アーロン・ブラウン [2]
聖書は「神は愛である」(1ヨハネ 4:8)と告げています。しかし、果たして私たちはその真理をどうやって理解できるのでしょうか。聖書には、愛についての神の定義を示す箇所がたくさんあります。最もよく知られているのは、ヨハネ 3:16でしょう。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。つまり、神が愛を定義する一つの方法は、与えるという行為にあります。しかし、神がお与えになったもの(あるいは、神がお与えになった「方」と言ったほうがいいでしょうか)は、単にギフト用に包装された贈り物ではありません。神は、ご自身のひとり子を犠牲にされました。それは、御子を信じる私たちが、神から離れて永遠に過ごさなくてすむようにです。これは驚くべき愛です。なぜなら、私たちの方から、神を拒むことを選んだというのに、神はその強烈な個人的犠牲によって隔たりを修復してくださるのですから。私たちはただ、神の贈り物を受け取るだけでいいのです。
もう一つ、神の偉大な愛についての聖句がローマ 5:8にあります。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。この聖句とヨハネ 3:16には、私たちへの愛について何の条件もついていません。神は、「あなたが行いを正しさえすれば、わたしはあなたを愛する」とも、「あなたがわたしを愛すると約束するなら、わたしはわが子を犠牲にしよう」とも言われません。それどころか、ローマ 5:8には、その正反対のことが書かれています。神は私たちに、ご自身の愛が無条件のものであることを知ってほしいと願っておられ、私たちがまだ愛されるにふさわしくない罪人であった時に、御子イエス・キリストを遣わして私たちのために死なせてくださいました。私たちが神の愛を経験する前に、清くなる必要も、神に何らかの約束をする必要もありませんでした。私たちに対する神の愛は常に存在し、それゆえに、私たちが神の愛を必要としていることに気づくずっと前から、神はすべてを与え、犠牲にしてくださったのです。…
神の愛は人間の愛とは非常に異なっています。神の愛は無条件であり、感情や情動に基づいてはいません。私たちが愛されるにふさわしい存在だから、あるいは私たちが神を喜ばせるから愛しておられるのではなく、神が愛であるゆえに愛しておられるのです。主は私たちが主との愛に満ちた関係を持つように創造され、その関係を回復するために御自身の御子を犠牲にされました(御子も私たちのために死ぬことを厭われませんでした)。
聖書が「神は愛である」と言う時、それは、神が漠然とした、暖かく、曖昧な愛の感情であると言っているのでありません。聖句の著者たちは、私たちの人間的な限られた形の愛の中に神を見出せると言っていません。それどころか、聖書で「神は愛である」と書かれているのは、神が愛を定義しているということです。… 神が愛の定義そのものなのです。…
真の愛とは何かを理解し、他の人を真に愛することができるようになるには、私たちは神を知らなければなりません。そして、主との密接な個人的関係を通して、そうできるのです。—AllAboutGod.com [3]
人類に対する神の愛は、人類の救いの必要に対する答えの内に、最もはっきりと現れています。すべての人は罪人で、神と和解するためにあがないを必要としています。神は一人ひとりの人を愛しておられるので、救いの計画を立てられました。御子なる神が地上に来て、罪のない人生を送り、そして、私たちの罪を身に負って死ぬことにより、私たちをあがなってくださるという計画です。
これによって、人類は神と和解できるようになったのです。どんな人でも、また、どんな罪を犯していようとも。イエスは、その命をすべての人のために犠牲にしてくださったので、それを受け入れる人すべてが救いを得られるのです。すべての人、全世界の人を愛しているために、そのようにしてくださったのです。
神は全人類を愛し世話しておられます。イエスが十字架上で死なれたことにより、神の愛は自己を与える愛であることがわかります。人に祝福や幸福をもたらすためにご自身を与えることは、神の性質なのです。
神の愛は、人類に対する神の忍耐、怒りに遅いこと、人々が救いの贈り物を受け取ることを切望していること、そのための時間を与えていることに現されています。神は、ご自分のかたちに造られた人間への深い愛のゆえに、人類に値する裁きを延期しておられるのです。
神は、誰一人として滅びることを望んでおられません。忍耐をもって、人々がイエス・キリストによってあがないの愛を受け入れる時間を与えておられるのです。人には自由意志を与えておられるので、それを受け取るようにと強制はされません。愛の内に忍耐をもって待っておられるのです。すべての人が受け入れてくれるようにと。
神の子どもとして、私たちの仕事は、神の愛の良き知らせをできるだけ多くの人に伝え、彼らも神の子どもとなって、私たちとともに神の祝福の相続人となるように招待することです。—ピーター・アムステルダム
2023年3月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:ジョン・リッスン
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