7月 27, 2023
イエスは山上の説教で、正しい動機を持って祈ることについて話されました。他の人に気づいてもらおうとして祈るべきではないことや、そうする人にとっては、それ自体が報いであって、それ以上の報いを受けることはないと言っておられます。それから、どう祈るべきではないかを熱心に説き、さらに今では「主の祈り」と呼ばれるようになった祈りを弟子たちに教えて、正しい祈り方を示されました。
間違った祈り方については、このように説明しておられます。「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ 6:7-8)。
イエスは、弟子たちの祈りはローマ人やギリシャ人といった異邦人の祈りのようであってはいけないと教えられました。彼らは、言葉数が多くて美辞麗句で満ちた祈りこそ聞き届けられ、かなえられると信じて、自分たちの神々に長々と祈っていたのです。しかし、イエスは、祈る時に言葉数を多くしたりくどくどと繰り返したりしないようにと教えられました。くどくどと繰り返すなということは、他の英訳聖書では、偶像崇拝者のようにべらべら述べるな、無駄または意味もなく繰り返すなとも訳されています。
古代の異教徒は、神々に対する自分たちの考え方にもとづいて、言葉数が多くて長い祈りを祈っていました。長々とした祈りは誠意を示し、神々に好印象を与えて、祈りをかなえるようにさせると信じていたのです。神々は怒りっぽく、気まぐれだと信じられていました。祈願をする人は不安と恐れを抱くこともあり、そのため、神々に気にいられて色よい反応をするよう説得するには、飾られ磨きをかけられた言葉で、長々とした祈りを祈ることが大切だと感じていたのです。
祈りについてのイエスの教えは、神がどのような方であるのかについて、まったく異なる理解をしておられたことにもとづいています。父なる神は愛情深くあわれみ深い方であり、「罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして…」(ネヘミヤ 9:17)、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして」(マタイ 5:45)くださいます。
神は情け深くて優しく、公正で聖なる方です。異教の神々とは違い、お世辞や多弁によって何かをするように説き伏せられる必要はないし、巧妙な言葉による祈りに踊らされることもありません。むしろ、私たちの父として、神は私たちに何が必要かご存じであるし、どんな愛情深い親でもするように、私たちにとって最善であるとわかっておられる時にそれを与えることを喜ばれるのです。
山上の説教のこの部分全体でされたように、イエスは、施しや断食や祈りをする時には、私たちの動機や心にある思いが何よりも重要であると指摘しておられます。山上の説教でも他の箇所でも、いい印象を与える目的で長々とした祈りを人前で祈ることに反対されました(ルカ 20:46-47)。長々とした祈りに反対する以外にも、大仰な祈りによって神を巧みに動かせるとか、うまく操って願いをかなえさせられるとかいう考え方についても反対されました。
イエスが焦点を合わせておられたのは、祈りの技術手段に反して、祈るための正しい動機でした。長い祈りを禁じておられたわけではありません。福音書の他の箇所には、イエスが「祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」(ルカ 6:12)ことが書かれています。また、執拗に祈ることに反対して教えられたのでもありません。執拗に祈ることは、不義な裁判官のたとえの中で、イエス自身が教えてくださった教訓です(ルカ 18:1-8)。祈る時に同じ言葉を繰り返してはいけないと教えておられるわけでもありません。それは、逮捕される直前にゲツセマネの園でイエスがされたことです(マタイ 26:39-44)。
少し前に、イエスは間違った動機で祈ることについて話されました。パリサイ人(ファリサイ派の人)が、自分の祈っているところを他の人たちに見せるために、午後の祈りの時間に人通りの多い街角や市場で祈るように時間を合わせていたという話です。それから、祈る時の正しい動機についても話されました。祈る時には人目につかないところで祈りなさい、つまり、神と二人きりで閉じこもり、神に、そして神と自分との関係に全神経を注ぐべきだと。そして、機械的な祈りの良くない点を指摘されました。心からではなく、神との交わりから発せられるわけでもない、中身のない無意味な繰り返しをくどくどと述べるような祈りのことです。
イエスはただ、どう祈るべきではないかを告げるだけではなく、どう祈るべきかを教えるために、主の祈りを授けてくださいました。その意味を詳しく調べてみると、朗誦するのに良い祈りであることの他にも、どう祈るべきかの指針を与えてくれる原則がいくつも提示されていることがわかります。
イエスが教えておられたのは、祈りやお決まりの言葉によって神に気に入ってもらえると考えて祈るべきではないこと、祈りとは父への信頼をあらわすものであり、父は私たちに必要なものをすでにご存じで、子どもたちが父に頼っていることを言い表すのを待っておられるだけであることです。
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(マタイ 6:31-32)。
祈る時、私たちは全知全能で完全に清らかで聖なる方、義であって栄光に満ちた方、存在しうる最も力強き方と意思疎通をします。神は今あげたすべて、さらにそれ以上の方ですが、私たちの父でもあり、無条件で私たちを愛し、その愛によって、私たちが祈りを通して神の御前に行けるようにしてくださいました。祈りによって、私たちは神と意思疎通し、神がおられるという信仰を示し、神を信頼し、神との個人的な関係を持ちます。
どのように祈るべきか
イエスは、祈りの正しい動機とは、神とコミュニケーションを取って交わりたいという願いであると弟子たちに教え、また、意味もなくくどくどと祈ることはやめるようにと忠告されて後、神との交わりの時に用いることのできる祈りを弟子たち(そして私たち)に教えてくださいました。通常、「主の祈り」あるいは「主祷文」と呼ばれているこの祈りは、山上の説教の一部として記録されています。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試み[誘惑]に会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ 6:9-13)。
ルカによる福音書では、別の状況下で、イエスがこの祈りを弟子たちに教えておられることになっています。
「また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください。』 そこで彼らに言われた、『祈るときには、こう言いなさい、「父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試み[誘惑]に会わせないでください」』」(ルカ 11:1-4)。
主の祈りには二つの異なるバージョンがあることから、どちらのバージョンが先なのか、イエスの教えられたことに近いのはどちらなのか、告げられたそのままに祈るべきだとのお考えだったのか、といったことについて、聖書学者の間で様々な意見が出ています。細かい違いについてここでは省きますが、イエスがこの祈りを幾度も教えられたことや、異なるバージョンのものを示されたことは想像がつきます。また、二つのバージョンの違いは小さく、互いに矛盾しているというわけではありません。
また意見が分かれているのは、イエスが教えておられたのは、ご自身がお伝えになったとおりに弟子たちが暗唱するようにとのことだったのか、あるいは、祈りには通常どのような点を含めるべきなのかを教えておられたのか、ということです。この祈りを一字一句違わずに祈るべきだとイエスが教えておられたと感じる学者は、ルカの福音書にある「祈るときには、こう言いなさい…」という言葉をその根拠とし、それを、祈る際には告げられたままの言葉を使って暗唱するべきだという意味に解釈しています。
レオン・モリスは、こう書いています。「しかし、この区別の仕方はおそらく形だけのものであり、イエスがこの祈りを(どのバージョンであれ)お教えになったときは、どちらの用い方をされても満足されたことでしょう。キリスト教の伝統において今までに分かってきたのは、それを単純な暗唱としても、より長い祈りで使うためのひな形としても、あるいはまた、祈りやその優先順位について考えたり教えたりする基準としても、差支えないということです。」[1]
私も、この祈りは一字一句暗唱するのによいものであると同意します。同時に、幾つかの原則を示すものでもあり、その原則は祈り全般に当てはまるものだし、私的な祈りに役立つものです。書き留められた祈りを朗誦することは、全般的に言って、「私的な」祈りに劣るのではないかと考える人がいるかもしれません。しかし、書き留められた祈りを自分自身の言葉として祈ることができるし、それは個人的な言葉で祈られた祈りと同じくらい心からのものとなりえると信じています。大切なのは、どのように祈るにせよ、その祈りが心からのものであることです。
2世紀に教会が発展していくにつれ、主の祈りは週ごとの礼拝において大切な場所を占め、聖餐の直前に祈られるようになったと、一般に考えられています。礼拝の中でもこの部分は、すでに洗礼を受けて信者となっている人だけのためでした。主の祈りを祈るという特権を持つのは、洗礼を受けた教会員だけに限られたものだったため、「信者の祈り」として知られていました。
教会の最も聖なる宝として、主の祈りは主の晩餐とともに、信者だけのものとされてきたのです。その祈りを祈れるというのは特権です。主の祈りにまつわる崇敬と畏敬の念は、古代教会が実感していたものでした。この祈りは、今日ではありふれたものとなってしまいましたが、その意味をもっと詳しく知るならば、より深く感謝する気持ちが新たにわいてくることでしょう。
2016年6月初版 2023年4月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
1 Leon Morris, The Gospel According to Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 1992), 143.
Copyright © 2024 The Family International