8月 17, 2023
ある友人と私は、今世界で起きているありとあらゆることについて抱いている不安や、それに伴う疑問について話していました。終わりは近いのだろうか? 終わりの時の預言は私たちが生きている間に成就するのだろうか? 神は私に何をさせたいのだろう? 私と私の家族は、神が望まれる場所にいるのだろうか? もしそうでないなら、どこへ行けばいいのだろう? どこか秘密の場所に飛んで行って、周囲で轟音を立てる人生の嵐から逃れ、平安と静けさを得ることができたならいいのに。
そのような考えや心配、不安を抱き始めたら、立ち止まって神を求めるのが一番です。御言葉に神を求めなさい。賛美と歌で神を求めなさい。必死の祈りで神を求めなさい。私たちが一心に神を尋ね求めるとき、神は答えると約束されています。
ダビデは詩篇でこう書いています。「わたしの心はわがうちにもだえ苦しみ、死の恐れがわたしの上に落ちました。恐れとおののきがわたしに臨み、はなはだしい恐れがわたしをおおいました。わたしは言います、『どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。わたしは遠くのがれ去って、野に宿ろう』」。[1]
けれども、ダビデはこの苦悩の状況で何をしたのでしょう。ただそこにいて心配ばかりしていたのでしょうか。いえ、彼は祈りで救いを求めました。「しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます。夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます」。[2]
ダビデはポジティブな言葉でこれを締めくくっています。私たちもそうすべきです。ダビデはこう書きました。「主はわたしがたたかう戦いからわたしを安らかに救い出されます。… あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」。[3]
神は御言葉の中で、私たちが求める避け所となってくださると約束しておられます。イザヤ書にはこうあります。「あなたは貧しい者のとりでとなり、乏しい者の悩みのときのとりでとなり、あらしをさける避け所となり、熱さをさける陰となられた」。[4]
ですから私たちは、神を求め、神を見いだすことによって、求めている心の平安を見いだすことができるのです。私たちは神に思いを留めなければなりません。「あなたに思いを留めている者を、あなたは全き平安のうちに守られる。彼はあなたに信頼しているからである」。[5]
問題は、私たちの魂の敵が、その時々の風や波に私たちの思いを向けて、神が味方であることを忘れさせようとすることです。ルカは、終わりの日についてのイエスの言葉をこう記録しています。
「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう」。[6]
この言葉は、将来の見通しが不確実である今日の世界の状況を表しているのかもしれません。今の不安の時代に、自殺や家庭内暴力が増加しています。私たちクリスチャンはどうすればいいのでしょう。どのように歩むべきなのでしょうか。どう反応すればいいのでしょうか?
再び、神の御言葉に導きを求めると、助言と慰めと力を与えてくれる箇所をいくつも見つけることができます。いくつか見てみましょう。モーセとヨシュアが、巨人や、イスラエルの民よりも強い民で溢れている約束の地を征服し始めたとき、神はこのような最初の命令を与えました。
「あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」。[7] 「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」。[8]
主は彼らに、落胆するな、おののくな、恐れるな、強く勇ましくあれ、と言われました。なぜなら、彼らがどこへ行こうと、主が彼らと共におられるのだからと。神は恐れが私たちを無力にすることを知っておられます。恐れは信仰の正反対であり、神と神の配慮を信頼することを妨げます。
「恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」。[9] 「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」。[10]
神は、私たちが信仰によって恐れに打ち勝つことを望んでおられます。私たちを導きたいのです。神は、私たちを私たちの能力に応じてお使いになりたいのです。私たちがすべきなのは、神が私たちに何をさせようとしておられるかを知るために、熱心に、必死に神を求めることです。そして、恐れや心配が入り込んできたら、ダビデの手本に倣うことができます。
「わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか」。[11]
不安や悩みの時に賛美を用い、神の御言葉を読む時間を持つことは、私たちが求める勝利と思いの明晰さをもたらす助けとなります。神は私たちの避けどころとなるのです。「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまではあなたの翼の陰をわたしの避け所とします」。[12]
「滅びのあらしの過ぎ去るまで」にどれだけの時間がかかるかはわかりませんが、神は私たちと共にいてくださると約束されました。そして嵐の時に避け所となると約束されています。「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。… 恐れるな、わたしはあなたと共におる」。[13]
ある夜、弟子たちがイエスと共にガリラヤ湖を渡っていた時のことです。嵐になり、船は波と海鳴りに打ちのめされそうになりました。弟子たちは、船の後部で眠っておられたイエスを起こしに行きました。イエスが「海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、『なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか』」。[14]
神には、私たちのうちに働く力によって、私たちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるのだと、信仰によって確信しつつ、神に近づこうではありませんか。[15] もし、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。[16] ダビデが言ったように、「わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません」。[17] なぜなら、神が勝利の右の手をもって、私をささえてくださるからです。[18]
1 詩篇 55:4–7.
2 詩篇 55:16–17.
3 詩篇 55:18, 22.
4 イザヤ 25:4.
5 イザヤ 26:3 英語欽定訳.
6 ルカ 21:25–26.
7 申命 31:6.
8 申命 31:8.
9 1ヨハネ 4:18.
10 2テモテ 1:7.
11 詩篇 56:3–4.
12 詩篇 57:1.
13 イザヤ 43:2–3, 5.
14 マルコ 4:39–40.
15 参照: エペソ 3:20.
16 参照: ローマ 8:31.
17 詩篇 56:11.
18 参照: イザヤ 41:10.
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