偶然、それとも?

7月 15, 2023

Coincidence? Or Not?
March 6, 2023

マリア・フォンテーン

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以下の証しは台湾にいる宣教師からのもので、主に従うこと、主のチェックに耳を傾けること、そして、主があなたに出会わせてくださった人に対して即座の証し人となることの重要性を示しています。誰かがメッセージを聞き、それを受け入れるための主の完璧なタイミングがいつであるかは、決してわからないものです。

その日は私の休日でした。夫は別の用事があり、子供たちは学校に行っていました。つまり、一日中、自分の時間があったのです。朝はコーヒーショップで読書をし、溜まっていたメールに追いつこうと思っていました。次に計画したのは、車で40分もかかることから、ほとんど行くチャンスのない、町の綺麗なエリアでのハイキングでした。

朝はスムーズで、すべてが時計のように正確に進んでいきました。まず、コーヒーショップではお気に入りの席を取ることができ、メニューはちょうど大好物のベーグルにリニューアルされたところでした。福音を宣べ伝えるときには、信仰、期待、そして準備できている状態というマインドセットを取り入れることが重要だという記事を読みました。これは、私にとって新しい考え方でした。誰かにイエスのことを伝えるための信仰であり、その人が福音を聞く準備ができているという信仰と期待です。

それまで私は、福音を伝えるのはクリスチャンであることの一部であるという信条でした。与える側である自分自身に関する信仰と、神が私に話すようにと計画された、受け取る側の人に関する信仰は、まったく念頭にありませんでした。どちらかというと、セールスマン的な考え方をしていたのです。商品を見せて、相手がそれを選んだなら素晴らしい、受け取らないなら、それは相手の問題なのだと。

証しの出会いの「タイミング」については、あまり考えたことがありませんでした。また、証しをすることはクリスチャンとしての私の仕事であり、人生にイエスの恵みと祝福を受けるためにすべきことだと信じてきました。証しするというイエスからの委任に従うことこそが、私にとって重要なことであって、結果を見ることではなかったのです。

この新しい概念について読んで、黙想を終える前に、私は福音を聞く準備ができている人たちに出会うための信仰と準備ができているように、そして良き知らせを与える者となる自分自身に関する信仰とが増すようにと祈りを捧げました。

その前の週には、子供たちが学校に通い始めたばかりだったのですが、運悪く、私は教科書の支払いのことで先生に会うために学校に呼ばれてしまいました。これで、一日の予定が台無しになったと思いました。予定していたハイキングコースに行く時間がなくなってしまったのです。学校での用事が済むと、もう午後5時を回っていました。日が沈むまでに、あと1時間しかありません。近くの公園に行って1時間ほど歩こうと思いました。ハイキングというほどのものではありませんが、せめて新鮮な空気を吸えると思ったのです。

公園に向かって300メートルほど歩いたとき、道を間違えた気がしたのですが、そのとき、学校のすぐ近くに、半年ほど行っていない短いハイキングコースがあることを思い出しました。結果的にハイキングはできそうだと思って元気が出て、引き返して別の方向に進み始めました。入り口に近づくにつれ、このハイキングコースに新しくできた綺麗な景色が見えてきました。小さな小川が迂回し、新しい休憩所や芝生の広場ができて、至る所に小さな遊歩道がありました。新しい小道を見に行こうしたとき、私はすでに知っている歩き慣れた小道へと引かれているような気がしました。そして次の分かれ道に差し掛かったときには、お気に入りのルートである滝のほうに行きかけていたのですが、滝に向かうのではなく、気がつくと滝から遠ざかっていました。歩きながら、神の被造物の中で過ごすこの時間を与え、この登山に導いてくださったイエスに感謝しました。

20分ほど登ると、最初の見晴らし台に着きました。二人分のスペースがある大きな岩で、谷を見下ろすことができます。通りがかると、その岩の上で瞑想していた一人の年配の男性が話しかけてきました。「よくここに登るんですか?」「いいえ、今年はまだ3度目です」と私は答えました。すると、彼は「この登山道は6年ぶりなんですよ」と言ました。それから、一緒に景色を眺めませんか、と誘ってきました。このとき私は、エクササイズの計画は放っておいて、座って景色を楽しみ、岩の上に座っている男性のことを知る必要があると思いました。数分もしないうちに、会話は霊的な話題になり、私はすぐにこのエディという男性が無神論者だと知りました。そればかりか、彼は生まれてから一度も神の存在を感じたことがありませんでした。

彼は言いました。「もし神が実在するなら、その証拠はどこにあるのですか?」 なぜ彼は50年以上もの間、霊的な体験をしたことがなかったのでしょうか。それからこうも尋ねてきました。「宗教を持つことのメリットは何ですか?」 この男性は科学的思考を持っていて、顕微鏡で証明できるものしか信じない人でした。それに対して私は、神との経験について話し、神の存在を証明する最大のものは、私たちの周りにある被造物であると説明しました。

会話は延々と続きました。私はイエスの誕生と死の物語、17歳で宣教師になることを選んだ私自身の選択、そしてイエスが私にしてくださった奇跡について話しました。私たちは一緒に聖書の箇所を見て、イエスが彼の人生を変え、ご自身を現してくださるように祈ってはどうかという選択肢を示しました。すると、エディは私と一緒に救いの祈りを捧げ、見事に救われたのです。

彼が言うには、山の反対側に行くつもりだったけれど、何かのきっかけで別の方向に車を走らせたそうです。そして滝を見るつもりだったけれど、なぜか別の登山道を登ることになったと。私は感激し、つい1時間前の私自身の体験を彼に話し、私もその登山道をハイキングするつもりはなかったと話しました。エディは、今回のいきさつを奥さんに話すのが待ちきれない様子でした。彼は私たちが奇跡的なスピリチュアルな出会いをしたと言い続けていました。

別れ際に、エディはこう言いました。「もし5年前に会っていたら、あなたの言うことになど耳を貸さなかったでしょう。今は、人生で初めて、スピリチュアルなことに心を開いています。今までは車輪の中のネズミのようだったけれど、ここ数カ月は人生を変える必要があると感じていたのです。立ち止まって考える時間を取ってきて、お金や名声、成功が人生に幸福をもたらすものではないことがわかったのです。それ以上の何かを求めていたのです。」 私たちは連絡を取り合うことを約束しました。

家路を行きながら、その朝読んだ言葉を思い出しました。「主への信仰と信頼、そして主が導かれるところに喜んで従うこと、それがクリスチャンとして必要なことなのです。」

初版は2009年 2023年3月に改訂・再版 朗読:レノア・ウェルシュ

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