6月 5, 2023
ムーディは小学校5、6年生程度の教育しか受けておらず、それでさえ成績は劣っていました。初めて日曜学校に出席したときなどは、創世記をめくりながらヨハネ書を探したほどです。マウント・バーノン会衆派教会で入信しようとした際には、キリスト教の教えをまったく知らないという理由で断られました。彼の友人たちは、いかなる公的分野でもこれほど役に立てそうもない人物はめったにいないと思っていました。しかし、一見小さな、取るに足らないと思われる人でも、神に委ねるならば、神はその人を大いに用いることができるのです。
17歳の時、ドワイト・L・ムーディは貧しい未亡人であった母の農場を離れ、大都会ボストンで独り立ちし、叔父の経営する靴屋で店員として働き始めました。1854年のことです。そしてある日、彼の人生の中で最も大きな出来事が起こりました。
エドワード・キンボールという熱心なクリスチャンがいました。彼は、ドワイトが初めてこの街に来たときに彼に出会い、どうしても彼に証ししてイエスと神の救いのご計画について伝えなければならないと感じました。キンボールはムーディが働いていた店を訪れ、奥の部屋で靴を包んでいるムーディを見つけて、どうすればイエスを個人的な救い主として迎えることができるかを告げました。ムーディーはその話を熱心に聞き、イエスを受け入れるために一緒に祈ったのです。
それから間もなく、ムーディはヘンリー・ヴァーリーという福音伝道師が言った、「完全に神に委ねている人間を通して神に何がおできになるかを、世界はまだ見ていない」という言葉を聞きました。ムーディはこの言葉に魅了され、「神の恵みによって、私はその人間になる!」と決意しました。[1] そして、彼はそれを実現したのでした。しばらくしてシカゴに移り住んだムーディは、そこで福音を説き、人々に証しをするようになると、人々をイエスに導けることに興奮を覚え、靴屋をやめてフルタイムで主に仕えるようになりました。やがて、ムーディは世界で最も偉大な福音伝道師の一人となり、その結果、文字通り何万人もの永遠の魂が神の国へと導かれました。
けれども、もしムーディが主に人生を委ねるという決心をしなかったなら、彼自身だけでなく、彼の宣教活動を通して福音を耳にした文字通り何百万もの人々にとって、いかに悲しい損失となっていたことでしょう。同じ原則が、私たち一人ひとりにも当てはまります。もし私たちが、自分たちの人生に対する神の御心を実行し、何であれ神が私たちに求めることをしようとしないなら、神が私たちに望んでおられる人物になることも、望んでおられることを行うこともできないかもしれません。それは、私たち個人にとってだけでなく、主が私たちに何らかの形で助けてほしい、永遠の救いで手を差し伸べたいと思っておられる人たちにとって、大きな損失となりえます。
あなたは、「私には、ムーディーのように主のための偉業などできるはずがありません。偉大な伝道師でも魂の獲得者でもありませんから」と思うかもしれません。もともと、ムーディーもそう思っていました。彼は貧しい農家の少年で学校の成績も平均以下で、農家での生活に飽き飽きして大都市に移り住んだ人です。都会に移って数週間後、彼は金持ちの実業家になるという新たな目標を設定しました。人生を神に捧げようなどとは、これっぽっちも考えていませんでした。しかし、イエスを救い主として受け入れ、主が自分のためにどれほど与えてくださったかを知ったとき、彼は主に人生を捧げようと決心しました。
あなたは「どうやってイエスに命を捧げるのですか」と尋ねるかもしれません。第一歩は、イエスを信じて、救い主として心の中に受け入れることです。それから、聖書にあるように、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さる」(ヤコブ 4:8)のです。神がこれまでに用いられたすべての人は、主に近づき、導きと強さとインスピレーションを求めて、神と神の力と御言葉に頼りました。
神の言葉はこう告げています。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ 12:1–2)。主に人生を明け渡し、主の奉仕のために自分自身を委ねるとき、私たちは人生に対する主の御心を知ることができるのです。
私たちの欠点、弱さ、無力さにもかかわらず、人生を完全に主に委ね、主が私たちを望み通りの者にしてくださるままにお任せするなら、主は私たちの中で、私たちを通して、御心を実現させるために働いてくだいます。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ 2:13)。もちろん、私たちにはそれぞれ自由意志があるので、主に委ね、「まず神の国と神の義とを求め」 る(マタイ 6:33)のを選ぶか、自分の願いや計画や方法を第一に求めるかを選ぶことができるのです。人生において主を第一に置くかどうかは、私たちの選択です。
聖書が神の国を第一に求めることについて語っているとき、それは単に私たちの人生の「宗教的」な部分のことだけではありません。主は、私たちの人生全体、将来、計画、そして選択について話しておられます。毎日決まった時間数、神の御言葉を読み、祈るというものではありません。人生を主に委ね、生きた供え物として自分自身を主の祭壇に捧げるというのは、私たちの意志、計画、将来、願い、野心を主の御手に委ねることを意味します。
私たちは、主の王国は魂でできていること、そして、一人でも多くの人を主の王国に導くために、神が私たちに「すべての造られたものに福音を宣べ伝え」る(マルコ 16:15)のを望んでおられることを知っています。ですから、御心に委ねるとは、御言葉と神の愛によって人々に手を差し伸べるため、できることは何でもするということなのです。主が私たちの贖いのためにしてくださったことと、主が十字架上で死なれた永遠の命の賜物を考えれば、これは私たちの「なすべき(理に適った)霊的な礼拝」(ローマ 12:1)なのです。
これは、自分自身に問うと良い質問です。「あなたは自分の計画を神に差し出して署名をもらうのでも、さらには神にご計画を提示していただいてあなたが署名するのでもなく、たとえ神のご計画がどうなるのか事前に知らなかったとしても、白紙に署名をして、神にその内容を記入していただこうという気はありますか? あなたは自分の人生を神に委ね、神が与えてくださるどんな役割も果たそうという気はありますか?」 もしそうなら、神はあなたの人生のために素晴らしいご計画を用意しておられると信頼できます。(参照:エレミヤ 29:11)
あなたが人生を主に委ねる時、主はあなたを祝福し、主の選ばれた方法であなたを用い、あなたの人生を他の人々の祝福となるようにしてくださると確信できます。もちろん、すべての人がD・L・ムーディや使徒パウロのようになるよう召されているわけではありません。しかし、神は私たち一人一人に特別な召命と御国での場所を用意しておられるのです。福音書をよく読むと、神がさまざまな人をさまざまな方法で召されることがはっきりわかります。
イエスと共にいて、ほとんど絶えずあちこちイエスに従っていた全時間の弟子は12人から70人だけでしたが、他にも、イエスの言葉を受け入れて信じ、それを他の人々に広めた弟子たちが何千人もいたのです。あなたが異国の地で、あるいは主があなたを置かれた場所で、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と呼ばれていると感じたとしても、あるいは、「神の国を第一に求める」ことで、他の人もそれと同じくできるようにするように呼ばれていると感じたとしても、いずれにせよ主はあなたの努力を祝福し報いてくださいます。
*
私がアメリカ史の中で最も好きな「その他大勢」の一人に、エドワード・キンボールという人物がいます。エドワード・キンボールという人物の歴史的な意義を語れる人はあまりいないのではないでしょうか。無名なので、ウィキペディアのページさえありません。しかし、神への簡素な奉仕を通して、彼は世界中に影響を与えたのです。
1854年、デトロイトで日曜学校の教師をしていたキンボールは、ある日、日曜学校に来ていた、神や宗教にはほとんど興味のない17歳の少年を訪ねました。靴屋で仕事をしていたこの少年に会いに行った際、彼は少年をキリストとの関係へと導きました。D・L・ムーディこそ、その少年です。ムーディはその後、世界で最も偉大な伝道者の一人となり、1億人もの人々に福音を伝え、ムーディ聖書学院とシカゴのムーディ教会を設立しました。
しかし、話はそれで終わりではありません。ロンドンのF・B・マイアーという牧師は、ムーディーの宣教によって信仰を持つようになりました。マイアーはJ・ウィルバー・チャップマンを信仰へと導き、チャップマンは20世紀のもう一人の著名な福音伝道師ビリー・サンデーに影響を与えました。さらにビリー・サンデーは、モルデカイ・ハムという人物が信仰を持つようになるのに不可欠な存在でした。そして、モルデカイ・ハムは、ビリー・グラハムという若者をキリストに導いた伝道師だったのです。…
エドワード・キンボールの物語は、たった一人の人生にイエス・キリストの福音を分かち合うことによって、あなたが世界に与えることのできる影響力を決して過小評価すべきではないことを思い起こさせてくれます。… エドワード・キンボールの物語が、祈り続け、イエス・キリストに見出せる救いについて分け合う機会をあなたが探し続ける励みとなりますように。—エリック・スティルマン [2]
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2023年6月に改訂・再版 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
1 Erwin Lutzer, “Totally Yielded to God,” Moody Church Media, 2014, https://www.moodymedia.org/articles/moody-man-our-times.
Copyright © 2024 The Family International