神の恵み

10月 4, 2022

The Grace of God
October 4, 2022

引用文集

オーディオ所要時間:13:16
オーディオ・ダウンロード(英語) (12.1MB)

聖書の神は「あらゆる恵みの神」です。[1] 恵みは愛ですが、特別な種類の愛なのです。それは相手のレベルまで下がって、犠牲を払い、仕える愛であり、意地悪な者に親切にし、恩知らずで恩に値しない者に寛容である愛です。恵みは、神が惜しみなく与えてくださる身に余るような好意であり、愛しにくい者を愛し、放浪者を探し出し、絶望している者を助け出し、物乞いを芥の中から引き上げて高貴な者と共に座らせます。

この恵みこそ、神がある民族と契約を結ばせるようにしたものです。神の恵みは契約の恵みです。もちろんそれは分け隔てなく全員に示されるものでもあります。「一般恩寵」と呼ばれているもので、神は分け隔てなくすべての人に、良識と良心、愛と美、人生と食べ物、結婚と子供、仕事と娯楽、政治秩序、その他数多くの賜物を与えてくださいます。

しかしながら、神が特定の人たちと特別な契約を結んだことは神独特の恵みの行為として描かれています。まず神ご自身が民を選び、その民の神になるという誓約を結ばれたからです。他の民よりも偉大で優れているという理由で、神はイスラエルを選びませんでした。神がお選びになった理由は、イスラエルではなく神にありました。モーセが、「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは…ただ主があなたがたを愛」されたからだと説明したように。[2]

「redemption(あがない、買い戻し、身請け)」は元々、神学用語ではなく商業用語(債務などの償還)でした。旧約聖書では(現在もそうであるように)、よく譲渡されて地主の手を離れたり、抵当に入ったりした土地の買い戻しの話が出てきます。また身請け(解放)される奴隷や囚人の話もあります。それぞれの場合において、何かまたは誰かが、持ち主の手を離れた状態または隷属状態から買い戻されています。「あがなう」とは誰かの自由を買い取ることであり、代価を払うことで失われたものを回復することなのです。…

これは、イエス・キリストのあがないという偉業に関して、旧約聖書に描かれた背景です。さて、人類に関して言えば、誰かの元を離れ、隷属状態にあるのは、霊的なものです。それは、創造主の権威に反抗し、隣人の幸福に逆らうという私たちの罪です。それは私たちを隷属状態に置き、神から引き離しています。そして、罪を犯す人間には裁きが待っています。反逆したがゆえに死に値するということです。

なすすべもなく絶望的なこの状況下にイエス・キリストが来られました。誕生の際には私たちのように人間となり、死の際には私たちの罪を負われました。新約聖書に赤裸々かつ率直に書かれているように、イエスはまず「肉体となり」、その後「罪とされ」、「わたしたちのためにのろいとなって」くださったのです。[3] つまり、イエスは私たちの身代わりになられたのです。ご自身を、悲惨な状況にある私たちと完全に重ね合わせ、私たちの罪を背負って私たちのために死んだのでした。…

今、イエスは「神の右に座しておられる」と書かれています。あがないのわざを終了され、栄光と栄誉を受けられました。イエスは私たちのために、「永遠のあがないを全うされた」のです。[4]ジョン・ストット [5]

身をかがめる愛

恵みは自分の利益など気にしません。恵みは、身をかがめる愛です。受けるに値しない人に、恵みは見返りなしにすべてを与えます。[6]

ドナルド・バーンハウスはこう語りました。「上に向かう愛は礼拝、外に向かう愛は優しい愛情、身をかがめる愛は恵みです。」 旧約聖書に出てくる恵み(ヘーン)には、「かがむ」という意味が含まれています。神は、人間という低い者たちのために身を落とし、[7] 罪人を迎えようと走り寄り、[8] 愛しにくい者を愛されました。[9]

恵みは罪の度合いを気にしません。イエスも癒された相手の病気のひどさを気にしませんでした。恵みは「罪人のかしら」を救出しました。パウロは、罪人の族がいたとしたら、自分はそのかしらだろうと考えていました。けれども、主の恵みはパウロにとって、「ますます増し加わってきた」のでした。[10]

恵みは取税人や罪人を救出しました。イエスは宗教エリートから疎外された者たちを助けられました。[11] 取税人や罪人は宗教が自分たちのためだとは思っていませんでしたが、イエスは、宗教はパリサイ人のような「善良な」人たちだけのものではないと教えられました。それどころか、大勢の罪深いと思われていた人が入る中、独善的な人は王国から締め出されると。[12] イエスが来られたのは「義人を招くためではなく、罪人を招くため」でした。[13]

恵みは異教徒と不品行な者を救出しました。ローマ帝国にラスベガスやリオ、サンフランシスコはありませんでしたが、コリントがありました。コリント市民は不品行で広く知られており、そこでの宣教活動は熟練した宣教師であるパウロの心に恐れを抱かせました。[14] きっと「時間の無駄だ」と思ったことでしょう。けれども、主は時間の無駄にならないとご存じでした。警察の犯罪記録に名を連ねていた者たちが、まもなく天国に名を書きとめられようとしていたのです。[15]

年齢が進み、最後の書簡を書いていたパウロは、神の恵みを確信していました。「わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」[16] パウロの体が弱っていた時に、イエスはこう告げられました。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。」[17] ダビデはこう述べました。「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。」[18]

神は高い代金を払って私たちを買われました。イエスの命です。[19] イエスは代価を払うことによって、私たちを解放されました。そして、御子が「あなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」[20]アレン・ウェブスター [21]

永遠の恵み

クリスチャンは救いを失いうると信じる人の中には、永遠の命とは永久に続くということではなく、命の質を指しているという見方をする人がいます。つまり、神との関係における命の質であり、しばらく持っていてそれから失うことがあるということです。しかしこの概念は、聖書の中で永遠と訳されている箇所に最も多く使われているギリシャ語の「アイオニオス 」の意味とは合致しません。アイオニオスの定義は、果てしなく続く、いつまでも止むことがない、永遠、永久、です。

永遠の命は、裁き、罪の責め、神からの隔てとは対照的です。イエスを受け入れ、生まれ変わった人は罪に定められることがなく、キリストの十字架での死によってあがなわれています。[22]

救われたからといって、この人生において罪に終止符が打たれるわけではありません。クリスチャンとして、罪を克服しようと引き続き努力すべきものの、人間は罪深い性質を持っているため、罪を犯すものだし、罪を犯したときには神に許しを求めるとよいのです。罪は霊的生活に悪い結果をもたらし、神との個人的な関係に影響を与えますが、それによって救いを失うわけではありません。罪の結果をこうむることはあるでしょう。それに、良き親である神は、愛情をこめて私たちを教え訓練しようとして、懲らしめを与えられることもあるでしょう。しかし、神の子としての立場、神の家族に養子として迎え入れられた者としての私たちの立場は、失われません。[23]

神の子として、私たちは永遠の命を継ぐ相続人です。それを相続することは、救いによって約束されています。

「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」[24]

恵みによって義とされるとは、イエスの犠牲によって救われるという意味であり、私たちは神の力によって守られ、私たちのために天にたくわえられている朽ちることのない資産を受け継ぐ相続人なのです。

神は救いを約束され、イエスはご自身の死と復活によって救いを確保され、そして聖霊は救いを保証されます。私たちの救いは確実で、不変のもの、永遠のものです。いったんそれを得たなら、失うことがありません。一時的に信仰の道からそれることはあるかもしれませんが、そのように信仰や従順の道からそれることで、イエスの血によって義とされた相続人としての法的立場に変更はないのです。[25] 救われた者、イエスを受け入れた者、生まれ変わった者は、救いを失うことがありません。

イエスを救い主として受け入れ、生まれ変わったクリスチャンは、永遠に救われています。神の愛の贈り物である永遠の救いを受け取っています。永遠の命を持ち、神と和解しており、とこしえに生きるのです。それはただ、神が私たちを愛し、イエスが私たちのために死んで、救いという素晴らしい贈り物を受け取れるようにしてくださったからです。

神こそが真実で正しい裁き主であり、一人ひとりの心のうちや動機を知っておられ、それぞれの人についてのすべてを理解しておられるのだということを覚えていなければなりません。神は、人々が救われて欲しいと望んでおられます。創造された一人ひとり、すべての人を愛しており、救いという贈り物を受け取る人には誰であっても、それを惜しみなく与えてくださるのです。—ピーター・アムステルダム

2022年10月アンカーに掲載 朗読:デブラ・リー
音楽:ジョン・リッスン


1 1ペテロ 5:10.

2 申命 7:7–8.

3 ヨハネ 1:14; 2コリント 5:21; ガラテヤ 3:13.

4 ヘブル 9:12.

5 Understanding the Bible (Scripture Union, 1978).

6 エペソ 2:8–9.

7 ローマ 12:16.

8 ルカ 15:20.

9 ローマ 5:6.

10 1テモテ 1:14–15.

11 ルカ 7:34.

12 マタイ 21:43.

13 マタイ 9:13.

14 使徒 18:9–10; 1コリント 2:3.

15 ピリピ 4:3.

16 2テモテ 1:12.

17 2コリント 12:9.

18 詩篇 37:25.

19 エペソ 1:7.

20 ヨハネ 8:36.

21 https://housetohouse.com/gods-amazing-grace.

22 ヨハネ 3:17–18.

23 ヘブル 12:6, 8, 10–11.

24 テトス 3:4–7.

25 ローマ 5:9.

Copyright © 2024 The Family International