道であり、真理であり、命

1月 9, 2023

The Way, the Truth, and the Life
January 9, 2023

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:9:31
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ヨハネ第13章に書かれているのは、イエスが逮捕され十字架にかけられる前の晩、マルコとルカの福音書にあるように「二階の広間」(ルカ22:12; マルコ14:15)で、弟子たちと共に食事をしておられる場面です。弟子たちは知らなかったのですが、これがイエスとの最後の食事となります。

食事の最中に、ユダはイエスを裏切って当局に引き渡すために出ていきました。彼が行くと、イエスは弟子たちに、ご自身が栄光をお受けになることを語り、さらにこう言われました。「子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない。』」 使徒ペテロがイエスに、どこへおいでになるのかと尋ねると、イエスはこう答えられました。「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう。」(ヨハネ13:33, 36)

これを聞いて弟子たちがどれほど驚いたかは、容易に想像がつきます。彼らはイエスに何年ものあいだ従うために、故郷も家族も生活手段も後にしてきました。それなのに、ここへ来て、イエスは去って行かれ、彼らは一緒に行けないというのです。イエスに質問をしたのは、ペテロだけではありません。トマス、ピリポ、そしてイスカリオテでない方のユダも、発言をしています(ヨハネ14:5, 8, 22)。イエスが去って行かれると聞いて、弟子たちは困惑し、ひどく悲しんだに違いありません。特に、自分たちの親友の一人がイエスを裏切ろうとしていると聞いたばかりだったのですから。

イエスは次のように語って、弟子たちを慰められました。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている。」(ヨハネ14:1-4)

ご自身が去り行くことを告げた後、イエスは、物事はうまく運ぶようになり、また、去っていくことは彼らが思っているように最悪なことではないと説明されたのです。父の家へ行って場所を用意し、また一緒におられるようにするのだと。また来るということについては、おそらく「時の終わり」に戻って来られること、つまり、イエスの再臨を指しておられるようです。

イエスがどこへ行かれるのか、その道は弟子たちが知っているとも言われました。彼らは、どのようにしてイエスに従うべきかを知っていました。これまでイエスが導いてきてくださった道に従い続ける限り、イエスがおられるようになる所に彼らも行くことになります。しかしトマスは、ペテロがそうだったように、その言葉に当惑して、説明を求めました。「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう。」(ヨハネ14:5)

トマスは、この「道」というのが、方法や手段としての道ではなく、特定の行き先へと続く道のことだと思ったようです。彼の質問の結果、イエスはさらに明確に語られました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

ここでの主題は「道」です。しかしイエスは方向を示しておられたのではありません。その道とはイエスご自身であり、行き先はイエスの父だと言うのです。「道」として、イエスは迷い出た者と父とをつなぐものとなられました。イエスなしには、誰も父のみもとに行くことができません。イエスは、ご自身が、誰しもが父との関係を結んで永遠の命を持つための唯一の手段であると言われたのです。このメッセージは、新約聖書の多くの節で繰り返されています。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3:16)

イエスはこの世に来て、人が救いを得られるようにと、その命を捧げてくださいました。イエスは、救いへの「道」なのです。「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ10:9) 「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(1テモテ2:5) 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)

イエスは「道」として、人が父との関係を結ぶための唯一の手段です。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)

神はこの世界とその中に住む全ての人を愛しておられるので、私たちの代わりに死んでくださったイエスという贈り物を通して、救いへの道を備えてくださったのです。それによって、私たちが神の臨在に入り、神の家族の一員となって、神を父と呼べるようにです。神のみもとに行く「道」とは、イエスによってなのです。

イエスは、ご自身が「真理」(真実、まこと)であるとも言われました。旧約聖書では、神が「真実の神」と呼ばれています。(イザヤ65:16)

私たちは通常、真実と言えば、虚偽の反対語、あるいは、ただのうわべとは逆の意味での実状として考えます。しかし、英語の旧約聖書で「truth」(真理、真実、まこと)と訳されているヘブル語の「エメト」という言葉には、忠実なこと、信頼に値すること、安定していること、確実なこと、という意味もあります。神について言われる場合、この言葉は、神が偽りのない真実な方であることだけではなく、完全に信頼に値する誠実な方であることも示しています。天の父は、その両方の意味で真実の神です。

新約聖書には、イエスについてこう書かれています。「恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14 新共同訳) 「このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」(1ヨハネ5:20) 「真理はイエスにある。」(エペソ4:21 新改訳第三版)

イエスは十字架にかかる直前、ピラトにこうおっしゃいました。「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。」(ヨハネ18:37) 父は真実な方であり、子もまた真実な方なのです。

イエスは道であり、真理であることに加えて、「命」であるとも言われました。この文脈における命とは、永遠の命に重点が置かれています。新約聖書では幾度も、イエスが永遠の命へ至る手段であり、イエスを信じることで永遠の命が与えられるということが明言されています。

「それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。」(ヨハネ5:26) 「すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。」(ヨハネ5:21) 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25-26)

「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持つ。」(1ヨハネ5:11-12) 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)

私たちの愛し仕えるイエスは、道です。父と共に過ごす永遠の命への道なのです。イエスは真実(真理)です。完全に偽りなき方という意味でも、誠実で信頼できる方という意味でも。イエスは命であり、命を与える方でもあります。私たちのためにご自身の命を与えることによって、私たちがイエスと共に永遠に生きられるようにしてくださったのです。

初版は2018年5月 2023年1月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス

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